「一の谷合戦」で源義経が勝利したのは自らが取った奇襲戦法ではなく後白河法皇の謀略が原因 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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「治承・寿永の乱」、俗に言われて来た源平合戦の最後の決

め手となったのは、「一の谷合戦」で源義経が取った奇襲戦

法だろうと、これも長きに渡って言われてきました。

 

しかしここに、興味深い事実があります。1184(寿永3)

年、義経が奇襲戦法を実行したとされるのは2月7日ですが、

その前日の2月7日に本家平氏の陣中に後白河法皇から1通

の手紙が届けられたそうです。

 

「和平交渉を行なうので、8日に院使を送る。その間、戦う

ことがないように。このことは源氏にも伝えている。平氏の

軍勢にもその旨を伝えるように」

というのが、手紙の内容だったということです。

 

これを平氏の軍勢は信じて、武装を解除してしまったそうで

す。ところが翌日、休戦中の源義経の軍が攻めてきたのでし

た。これでは、本家平氏の軍は、たまったものではありませ

ん。

 

この後白河法皇の手紙については、鎌倉幕府の正史でもある

『吾妻鏡』にも記されています。そして平氏がこれに騙され

たことは、間違いありません。

 

平氏が敗れた「一の谷合戦」の決め手は、義経の奇襲戦法で

はなく、この後白河法皇の謀略にあったと考えても良いと、

思われます。