戦国武将でありながら「一所懸命」でなく「一生懸命」だった織田信長 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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戦国時代までの武士のモットーから生まれた、「一所懸命」

という言葉。最初は「一生懸命」ではなく、「一所懸命」で

した。

 

武士にとっては、自分の拠点となる領土が命でした。まずは

自分の領土を命がけで守ることが、最優先の仕事だったので

す。そのため戦国武将たちも、他国を侵略しても自らの拠点

を変えることは、ほとんどありませんでした。

 

たとえば数多くの侵略を繰り返した武田信玄ですが、拠点は

あくまで甲斐国であり、生涯移すことはありませんでした。

甲斐は海がなく、塩が採取出来ません。また土地が固くて畑

にも水田にも向きません。従って、海に面した国や農地が豊

富な国を侵略して甲斐国の傘下、いわば植民地のような形に

したわけです。あくまで甲斐国という自らの拠点を発展させ

るための、侵略だったのです。

 

ほとんどの武将が、この類で侵略戦争を繰り返しました。武

士の基本、「一所懸命」の基本です。

 

そんな中、例外だったのが、織田信長でした。信長は、那古

野城で生まれ、清州城に移り、美濃国を攻めた時は小牧城に

移り、攻め取った後は岐阜城、そしてさらには、安土城に移

っています。その後「本能寺の変」で他界するのですが、実

はさらに大坂への移動も計画していたことが判明しているそ

うです。

 

つまり、侵略やその時の政治目的に合わせて、拠点を変えて

いるのです。いたって合理的な考えなのです。

 

勿論それまでの拠点を捨てたわけではなく、領地としてキー

プしたまま部下に管理(統治)を任せているのです。

 

そうして拠点の移動を繰り返しながら「天下統一」に向かっ

たわけですが、これも結果的にそうなっていったまでで、最

初から「天下統一」を目指していたとは、とうてい思えませ

ん。ただ移動を繰り返すうちに色んな国が見えてきて、視野

も発想も広く大きくなっていったものと思われます。

 

つまり「領国」という狭い範囲でなく、「日本」という広い

範囲と視点でものを考えるようになったのでしょう。

 

つまり織田信長は「一所懸命」の武将ではなく、その都度合

理的に死力を尽くすという「一生懸命」のタイプで、それが

結果的に天下統一を近くまで引き寄せたのでしょう。