天皇家が「持明院統」と「大覚寺統」に分立したのは鎌倉時代でした! | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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室町幕府が倒れた後、南北朝時代というのがしばらく続きま

した。天皇家が北朝と南朝に分立して、天皇が2人いた時代

があったのです。

 

この元をつくったのは、鎌倉時代に天皇家が「大覚寺統」と

「持明院統」に分立したことにありました。つまり鎌倉時代

後期には、そうなる要素が始まっていたのです。ちなみに後

醍醐天皇らの南朝が大覚寺統で、足利尊氏らの北朝が持明院

統です。

 

この分立の原因をつくったのが、後嵯峨天皇です。御嵯峨天

皇は即位後わずか4年で、子の後深草天皇に譲位し、院政を

敷きます。しかしウマが合わなかったのか、すぐに後深草天

皇に退位を命じ、溺愛していたその弟の亀山天皇を即位させ

たのでした。

 

その後約30年間、後嵯峨天皇は上皇として実質朝廷の最高

権力者として君臨したものの、後継について全く触れないま

ま他界します。そのため亀山天皇は自身の考えで後宇多天皇

天皇に譲位し、院政を開始したのです。

 

それに不満を持った兄の後深草上皇が失望のあまり出家しよ

うとしたところ、幕府が仲裁に入り、後深草の子を皇太子に

任命したのです。

 

その後深草の子は伏見天皇として即位するのですが、すんな

りとは行かず、悶着がありました。そこで幕府がまた仲裁に

入るのです。

 

その際の幕府の提案が、「後深草系の持明院統と亀山系の大

覚寺統が10年おきに交代で皇位に就くようにしたらどうか」

というものでした。朝廷は渋々その案を受け入れたものの、

その後も両統の確執は続いたようです。南北朝の分立は、す

でにここから始まっていたようです。