「壇ノ浦の戦い」で勝利した義経は「山本義経」こと「もう1人の源義経」だったという説 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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1185(文治元)年5月15日、「壇ノ浦の戦い」に勝利

した源義経が、平宗盛とその子・清宗という捕虜を連れて、

相模国に戻ってきました。本来なら、「凱旋」と呼べるもの

だったはずです。

 

しかし迎えるはずの兄・源頼朝の態度は、そっけないもので

した。義経一行を腰越で待機させるよう、申し渡しました。

その後指示がなく、義経はしびれを切らして手紙を書いたの

ですが、返事はすぐに来ません。やっと来たのが6月9日で、

しかもその内容は、捕虜を連れて京都へ戻れというものです。

 

頼朝は、義経を突き放したのです。その理由については、色

々説があります。その中で、メジャーというか主に言われて

いるものはここでは置いといて、少数派の説。そしてとても

ユニークだけど見逃せない説を、紹介します。

 

源義経には、美男子説と醜男説がありますね。これが2人の

源義経がいるからであることは、前にも触れた通りです。源

頼朝の弟で歴史上によく登場する源義経は、母が絶世の美女

である常盤御前(正確には常葉御前だと思いますが)なだけ

に、恐らく美男子でしょう。ただしもう1人、源氏の血を引

く「山本義経」というすこぶる戦に長けた武将がいて、この

人物も源氏の血筋なので正式には「源義経」なのです。従っ

てこちらの源義経の情報が、しばしば本家・源義経と混同し

て伝わっているようでして、しかもこの山本義経こと源義経

は、お世辞にも美男子とは言えなかったそうなのです。

 

そして壇ノ浦の戦いで勝利して相模国に凱旋した源義経はお

よそ美男子とは程遠い容貌だということが頼朝に伝わり、頼

朝は瞬時にそれは弟でなく山本義経の方だと悟ったため、追

い返したという説が、あるのです。殊勲者なのだから温かく

迎えてあげても良さそうな気もするのですが、頼朝はあまり

山本義経を信用していなかったというのです。

 

何とも言えません。ただし、誤りだという確証も、ないので

す。まあ、説としては、面白いと思います。