「大海人皇子」という名の驚きの由来 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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昨日の続きになりますが、近江朝廷の兵士たちが恐れをなし

た通り、ほぼ丸腰のまま吉野から逃れた大海人皇子は東国に

入った後すぐに大量の兵力を得て、対大友皇子の「壬申の乱」

に圧勝しています。本当に東国は、強かったのです。

 

実際に6世紀の関東には巨大前方後円墳が密集していて、そ

れだけ隆盛を誇った権力者が多くいたということになります。

単なる豪族ではなく、政治的にも大きな力を持った組織、つ

まりは政府と呼んでも良いものが存在していたはずです。

 

ただし大海人皇子が逃れた「東国」は関東まで及ばず、鈴鹿

や関ヶ原の東側くらいまででした。とはいえこの地には「尾

張氏」がいました。尾張氏は今の東海地方に相当する領域で

巨大な勢力を持つと同時に、東国と朝廷の橋渡しの役割も務

めていたとされます。

 

その尾張氏が大海人皇子を支援し、膨大な兵士と武器を集め

たということです。

 

さらに注目すべきは、この尾張氏の同族に「大海(おおあま)

氏」がいて、やはり大海人皇子に尽力していることです。実

はこの大海氏ですが、大海人皇子の養育係を務めたというの

です。

 

「大海人皇子」という命名ですが、この「大海氏」が養育係

だったことに由来するということなのです。そうなると、こ

の大海氏は勿論、その同族である尾張氏も大海人皇子を支え

るのは当然かもしれません。この東海地方の両雄が協力して

大海人皇子側に就いたのだから、壬申の乱の行方はもう見え

て来たと言っても良いでしょう。