中臣鎌足と外交問題と乙己の変の関連性 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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「乙己の変」で蘇我入鹿暗殺の瞬間を目撃した古人大兄皇子

が、謎の発言をしています。

「韓人が鞍作臣を殺した。胸が張り裂けそうだ」

 

これを言った後で古人大兄皇子は自宅にこもってしまったの

ですが、ここでの「鞍作臣」とは蘇我入鹿のことです。そし

て「韓人」は異国人、主に朝鮮半島からの渡来人のことを言

うそうです。

 

この発言については、『日本書紀』でも注釈が入っています。

「韓政によって誅殺されたという意味だ」

要するに、朝鮮半島から大陸における政治に蘇我入鹿は殺さ

れたということです。

 

この事件に、韓人というのが関与した形跡は、ありません。

ただし考えられるのは、中臣鎌足が半島からの渡来人だった

のでは、ということです。

 

そして政治においては、蘇我入鹿の時代と大きく異なった面

があります。特に、外交問題では。

 

蘇我氏の外交は、「全方位」が特徴でした。古くは、百済と

伽耶国が日本の主な友好国でしたが、6世紀に伽耶国は滅亡

し、百済だけが友好国になりましたが、その百済も衰退して

います。

 

そして7世紀の蘇我政権は、中国大陸の隋や唐の他、百済の

宿敵である新羅とも友好関係を結んでいるのです。百済はそ

れを裏切りと捉えたようです。

 

そしてそんな中、「乙己の変」は起きたのです。首謀者の1

人が、中臣鎌足でした。彼が百済からの渡来人であることは、

充分考えられますね。

 

その乙己の変の後、大和朝廷は再び親百済路線となり、唐と

新羅を相手に「白村江の戦い」という勝てるはずのない無茶

な戦争を仕掛け、案の定惨敗しています。