豊臣秀吉の「織田家乗っ取り」の仕上げ! | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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織田信長亡き後、邪魔でもあった織田信孝と織田信雄を策略

も駆使して討伐及び封じ込めに成功した秀吉ですが、ここで

は終わりません。朝廷にまず、すり寄ります。

 

1585年、秀吉は朝廷から関白宣下を受け、翌年には豊臣

姓を賜り、太政大臣に任ぜられています。この地位は、織田

秀信より上となります。

 

ただし決して、三法師こと織田秀忠を邪慳にしたわけでは、

ありません。三法師が元服して秀信と名乗るようになったの

は、1588年のことでした。名前にある「秀」は、秀吉か

ら与えられたもの。しかも、豊臣姓まで授けられています。

 

完全に主従が逆転していますが、そこも秀吉の巧いところで

す。秀信は、3歳の時から、秀吉が常に後ろ盾となって、親

のような立場で支えられているのです。教育係にも、なって

います。信孝に連れ去られた時にも、助けられています。

 

そんなわけですから、秀信が秀吉を慕うのも、わかるところ

です。というか、そうなるように、洗脳されてしまっている

のです。

 

そのため秀信は常に「豊臣家」の家臣として振る舞い、秀吉

も秀信を優遇はして来ました。なので秀吉は、主家であった

「織田家」を裏切ったとは、言い切れません。むしろ「乗っ

取った」という言い方の方が、正しいでしょう。