斎藤道三の死後ずっと蔓延し続けた「岐阜城の呪い」 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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1555(弘治元)年11月、斎藤義龍は父である斎藤道三に

対して挙兵します。そして「長良川の戦い」で道三は、敗死

へと追い込まれました。翌年のことです。

 

この斎藤道三の死後、彼が居城としていた岐阜城の城主が、

次々と早死にしています。

 

まずは道三を討った息子の義龍ですが、その5年後の156

1(永禄4)年に35歳の若さで病死しています。後を受け

継いだその息子の龍興は、織田軍との戦いで戦死しました。

25歳の若さでした。

 

その龍興から奪う形で岐阜城主となったのは、織田信長です。

御存知の通り、「本能寺の変」で不慮の死を遂げています。

 

「本能寺の変」の時には信長は岐阜城を嫡男の織田信忠に譲

っていましたが、その信忠も「本能寺の変」の際に妙覚寺で

自刃しています。5人目の城主となった信長の3男の信孝は

柴田勝家と組んで秀吉に対抗しましたが敗れ、26歳で他界

しています。

 

信孝の後の岐阜城主は池田恒興の長男・元助ですが、158

4(天正12)年に「小牧長久手の戦い」に参加しましたが

26歳で戦死しました。それを受けて岐阜城主となった元助

の弟の池田輝政のみが早死にしませんでしたが、その後を継

いだ秀吉の甥の羽柴秀勝は23歳で病死。その後の城主・織

田秀信も26歳で病死しています。

 

岐阜城はこの織田信秀を最後に廃城となっていますが、斎藤

道三没後、城主となった9人のうち8人が早死にしているの

です。織田信長は当時の基準では「若死に」とも言えません

が「早死に」ではあってしかも、不運な死ではあります。

 

そんなわけで、斎藤道三の「怨念」が働いているのではない

かとも、言われています。