平清盛率いる「本家平氏」が敗れたのは「分家平氏」を大事にしなかったから! | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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以前は「源平合戦」と言われていた12世紀末の戦いが、今は

「治承・寿永の乱」と改められています。当然でしょう。実際には

源氏VS平氏の構図とだいぶ違う戦いだったのですから。

 

確かに清盛と対した軍のトップは源氏の源頼朝でしたが、頼朝

を後押しした武将のほとんどは「関東平氏」たちで、すでにこの

ブログでも書いてきた通り実質「平氏の内紛」に近い構図だった

からです。

 

そもそも源頼朝を監視するはずがむしろけしかけて挙兵させ、そ

の後も後押しし続けた北条氏が平氏だったわけで、清盛を裏切っ

たわけです。なので、いわば北条氏の功名な謀反が、乱の発端と

いっても良いかもしれません。

 

1180(治承4)年に頼朝は最初の挙兵である伊豆での「石橋山の

戦い」で敗れ、房総半島の安房に命からがら逃げています。余力は

ほとんどない状態でした。

 

しかしその房総半島で、上総介広常、千葉常胤という平氏の強豪

武将が、頼朝を支援したのです。さらには、三浦氏、和田氏、畠山

氏といった名族たちが、頼朝を支援します。いずれも平氏で、北条

氏より格上の家系の平氏でもあります。

 

こうして見ると、関東平氏がこぞって本家平氏に反旗を翻して源氏

の源頼朝を支援しているわけです。しかも平氏の武士は、関東や

京都だけでなく全国各地に散らばっていました。従って、関東以外

の場所にも、平氏の分家がいました。その分家平氏が誰1人も、

本家を助けなかったのです。

 

いかに本家平氏が分家平氏の反感を買っていたかがわかるわけ

でして、敗因はそこに尽きると思います。本家平氏が分家平氏を大

事にしていれば、平氏の天下はしばらく続いたのです。