滝沢馬琴は生前に「滝沢馬琴」という名前を名乗っていませんでした! | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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『南総里見八犬伝』『椿説弓張り月』は本の作者の欄に、「滝

沢馬琴」とされています。なのでこれらの作品の著者は滝沢

馬琴ということで、イメージ的にほぼ定着しています。

 

そして滝沢馬琴は「曲亭馬琴」と、同一人物でした。ただこち

らの名前は小説家というよりも落語家っぽい響きなので、何

かユーモラスなことを書きたい時の別名で「曲亭馬琴」を使っ

ていたような捉えられ方も、しています。

 

しかし実は馬琴は生前、終始一貫して「曲亭馬琴」を名乗って

いて、「滝沢馬琴」をペンネームに使ったことは1度もなかった

そうです。

 

ただしプライベートでは、「滝沢清右衛門」と名乗っていました。

この「滝沢」は何かというと、先祖の名前なのだそうです。

 

曲亭馬琴は1767(明和4)年、江戸深川の旗本・松平鍋五郎

信成の5男として生まれています。武家の息子だったのです。

ただ5男という気楽さから自由気ままに過ごし、絵草紙や句集

にのめり込み、やがて放浪の旅をした後、山東京伝に認められ

ました。

 

そして彼の更なるルーツですが、戦国大名の最上義光の家臣

に「滝沢覚伝」という家臣がおりました。覚伝の孫の興也が養子

を取り、その養子の子が馬琴の父の松平鍋五郎信成だったと

いうことです。

 

馬琴はこの「滝沢家」に対して思い入れが強かったので「滝沢

清右衛門」をプライベートで名乗っていましたが、ペンネームは

ずっと「曲亭馬琴」でした。

 

後世の明治時代に入って「滝沢馬琴」という名が勝手に出回った

のですが、何故そうなったかは、わかりません。ただし、「曲亭馬

琴」はやはり上記したように、落語家っぽい響きでシリアスな小説

として読者に受け取られにくいと出版側が考えた可能性はありま

す。