蘇我馬子の墓 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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奈良県高市郡明日香村の丘陵斜面に、「石舞台古墳」という

古墳があります。ここには横穴式石室が露出していて、大きさ

は長さ7.7メートル、幅3.5メートル、高さ4.7メートルと、か

なり巨大です。

 

この古墳は、蘇我馬子の墓とされています。5世紀くらいまで

のものにはこれよりさらに大きな古墳も存在しましたが、田畑

などの妨げになるとして巨大古墳の自粛が申し合わされてから

のものとしては、最大級とされます。

 

蘇我馬子が活躍したのは推古天皇の時代の7世紀前半なので、

いかにその権力が大きかったかを示します。従って、後世が蘇

我馬子を横暴で専制的な政治家だったことをこじつけるのに、大

いに都合が良かったと思われます。

 

ただし蘇我馬子の邸宅自体がこの近くにあったと思われることか

ら、古墳造りのために他の土地を侵食するようなことはなく、蘇我

家自体の大きさが示されたものと見て良いでしょう。

 

また蘇我馬子自体、自分の姪でもある最高権力者の推古天皇に

対して「絶対服従」を誓う念書も書いていて、無理難題を要求した

形跡もほとんどありません。

 

唯一の無理難題とも思える624(推古天皇32)年の「葛城県の下

賜」の願い、つまり国有地を自分に譲ってくれという願いも、推古天

皇に退けられています。

 

その際の推古天皇の説得も、

「そのようなことをしたらあなたは末代まで『身勝手で横暴な政治家』

という評判が残り、恥を晒すことになります。功績に泥を塗るようなこ

とは止めましょう」

という内容だったとされます。

 

推古天皇の毅然とした人となりを示すエピソードですが、一方でいか

に馬子がそれまで親しまれる政治家だったかも、物語っていると思い

ます。なので、ここで誤解をされて嫌われるようなことは止めろと説得

されて、馬子自身も納得したのでしょう。この巨大古墳は、功績を認

められ、支持率も高かったからこそのものだったと見て良いと思いま

す。