元寇だけでなく大地震にも翻弄されていた鎌倉時代 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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鎌倉は、三方を丘陵に囲まれて残る一方が海という地形なの

で、防御には適していました。ただし自然災害には、弱かった

ようです。しかも近くにある相模トラフの活動が盛んな時で、地

震にも悩まされていたようです。

 

1241(仁治2)年にマグニチュード7の大地震で津波被害を受

け、さらに1257(正嘉元)年にも同程度の地震が発生し、関東

地方全域が大きな被害と損害を被っていたそうです。

 

そしてその後の1274(文永11)年と1281(弘安4)年の2度に

渡って、元寇がありました。この時の執権だった北条時宗はスト

レスがたまったのか弘安の役の3年後に34歳の若さで他界しま

す。

 

1284(弘安7)年に時宗の遺児である北条貞時が9代目の執権

となりますが、まだ14歳で有力な親族もいなかったため、後見人

が置かれることになります。

 

その後見人は、最初が安達泰盛。彼が専横的な政策や人事を断

行し過ぎたために謀反のような形で平頼綱らに攻められて自害す

ると、その平頼綱がそのまま後見人となります。

 

しかしその平頼綱は安達泰盛の上を行く恐怖政治を断行し続け、

貞時とも軋轢が生じます。そんな中で、1293(正応6)年、「鎌倉

大地震」が起きました。今度はマグニチュード7を超えるものとさ

れ、2万3000人以上の死者を出しました。現代とは人口が違う

中でのその数なので、被害の度合いは東日本大震災を超えるも

のだったと思われます。

 

そこで平頼綱は身の危険を感じ、屋敷の防備を固めさせたので

すが、これを「謀反の準備で不穏な動きである」とでっち上げられ、

貞時もそれを承諾して頼綱討伐を決心しました。そして攻撃を受

けて包囲された頼綱は、自害します。ただこのでっち上げをしたの

が頼綱の嫡男である平宗綱だったところに、根の深さがあります。

 

とにかく元寇という人災に大地震の連発という災害が重なった、波

乱の鎌倉時代と言えます。