2000年を経た今見直される徐福の功績 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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徐福といえば、秦の始皇帝に命じられて不老不死の薬を探し

に日本へ渡った学者で、そのまま日本に移住してしまったとい

うのが通説でした。

 

しかし最近ではその通説が、見直されて来ています。彼は始皇

帝の重臣ではなく、むしろ反逆勢力だったというのです。「不老

不死の薬」を口にしていたのは事実ですが、それは口実だった

ということです。

 

始皇帝も本気で日本にそのような薬のヒントがあると思っていた

わけではなく、いわば彼をそのような口実で左遷、というより追放

したというのがその真意。

 

徐福もそれをネガティブに感じるのでなく、これ幸いとばかりに自

らの信奉者何と3000人ほどを引き連れての大移動を行なった

わけです。そして日本を中国の秦以上に発展させようと尽力し、

農耕文化を伝えたということです。

 

始皇帝にすれば、反逆する有力学者に対し、粛清するのでなく日

本(勿論この呼称は存在しませんでしたが)追放、しかも3000人

も引き連れての移動を許すとは随分寛大と見る向きもあるかもし

れませんが、これはむしろ巧妙です。

 

徐福が武人であったり、また同じ学者でも兵学者なら警戒すると

ころですが、農学者、生物学者、そして医療関係に精通した学者

でもあり、肩書は「方学者」となっていました。つまり彼がどんなに

力を発揮したとしても、秦に対して戦を仕掛けるようなタイプでは

なかったわけです。

 

3000人を引き連れて行ったことについても、いわば自分(始皇帝)

に従わない可能性のある人間をごっそり連れて行ってくれたわけだ

から、やりやすくなったということでしょう。

 

そして徐福は、日本を発展させただけでなく、朝鮮半島や中国との

架け橋となって活躍し、今は日本だけでなく裏切ったはずの?中国

からも大いに評価されるのです。また中国では、日本の神武天皇と

徐福が同一人物ではないかという見方も、強いようです。あくまで中

国における説ですが。