平城京や平安京よりずっと大きかった藤原京が短命だった理由! | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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奈良の都・平城京と京の都・平安京は有名ですが、その前に

「藤原京」というのがありました。名前だけは聞いたことがある

という人は多いですが、影は薄いと思います。

 

それも当然で、わずか16年で終わっているのです。ただこの

都は、平城京や平安京よりもずっと大きいのです。

 

中央の藤原宮を中心に、約5.3キロメートル四方の広さを持

いたことが、判明しています。そこには多くの王族や皇族が、

住んでいました。中国の都城制にならった初めての「都」とし

て、ひそかな注目を集め出しているというこです。

 

ただその藤原京が、696年から710年までのわずか16年し

か続かず、平城京に遷都されてしまったのは、何故でしょう?

 

焼けてしまったという説もありますが、大規模火災の形跡はな

いそうです。なのでその説は、ないと思います。

 

一番の理由としては、交通面と衛生面の問題があったようで

す。もっと言えば、水利が足りなかったという面です。

 

当時の交通は、水利に頼っていました。豊富な川や海を使っ

ての、船舶利用で物資を運ぶのです。しかし川が飛鳥川とい

う小さな川があるだけ。そして山中なので、海には恵まれませ

ん。物資輸送が、不便でした。

 

さらに、当時のトイレは水洗式で、排泄物は川に流れるように

なっていました。なので小さな川しかないのでは、流れにくく、

空気が汚れます。衛生面が悪く、当然ウィルスは発生しやすい

ので、病気が増えます。

 

そんなわけで藤原京は都に向かなかったわけですが、ただそ

のようなことは、最初から予測がついたはずです。従って、も

っと違った有力説も、出ています。実は短命を覚悟していたと

いうのです。

 

というのは、長く日本は中国からの侵攻を警戒していました。

そしてその中国では、武則天というかなり武闘派で戦好き、そ

して戦に長けた独裁女帝がトップに立っていました。

 

彼女が暴発して日本に攻め入ることを警戒した上、この時の

日本の政治トップはやはり女帝の持統天皇でした。彼女が同

じ女帝の武則天にライバル意識を燃やすと共に、侵攻をより

警戒したことは予想されます。

 

従って、藤原京は、戦闘のための都だった。侵攻に備えて山

地を選び、住みやすさよりも防御を優先しての造りだったとい

う説です。

 

それは多分に、あるでしょう。そして武則天は、705年に没し

ています。そうなると、藤原京の役目は、実質終わっていたと

いうわけです。その説には、一理あると思われます。