明智光秀は山崎の合戦で死んでおらず、天海僧正として江戸
時代も大活躍していた。この説は日増しに強まり、通説を超え
る勢いになっています。
私もこれまで書いて来ましたように、その説を信じております。
ただ明智光秀の生存説には他にもありまして、それについて
今日は触れてみたいと思います。
あまりに驚きなのは、「明智光秀=千利休説」です。光秀にも
茶道の心得があったこと。そして通説での光秀の没年が158
2年で利休が歴史上に登場したのが1585年。それ以前の
利休の生い立ちに謎の部分が多いことから、そういう説も生ま
れているわけです。
そしてまた別には、荒深又五郎と名を変えて「関ヶ原の戦い」で
戦死したとの説があります。
岐阜県山県市中洞に光秀の墓があるのですが、そこに伝わる
話によると京都の小栗栖で死んだのは影武者で、光秀はその
後中洞で生き延び、荒深又五郎と名前を変えたというのです。
そして荒深又五郎は、関ケ原の合戦に東軍として参加し、戦の
途中に増水した薮川(現在は根尾川)に馬と共に転落死したと
いう風に、この地では伝えられるそうです。
まあいずれも信憑性には疑問がありますが、ただ山中で野武士
に刺されて死んだといういわば通説がそれ以上に信憑性に欠け
るため、色々出て来るのかと思います。
「本能寺の変」自体が何やら大がかりな陰謀が感じられ、単なる
光秀の私怨によるものとは思えない気がするので、一介の武将
として新たに関ヶ原の戦いに参加するような生き延び方はしない
と思います。そして利休のように切腹をさせられることも、ないの
ではないでしょうか。やはり「天海説」が最も信憑性があると思い
ます。
ミスターマニアック山科ですのmy Pick