1156(保元元)年に起きた「保元の乱」は、元は皇族内の
戦いでした。
崇徳上皇と後白河法皇が争うのですが、命運を分けたのが、
夜における戦いでした。
崇徳上皇側についた源為朝が公家たちに、夜討ちを進言し
ます。夜中に敵陣に攻め込む作戦です。一方後白河法皇に
ついた源義朝も、やはり同じことを企んで江いました。
それに対し崇徳上皇は、「皇族同士の戦いは、昼間に正々
堂々と行うべきだ」と言って夜討ちどころか、相手が寝静ま
っている間に攻め込む「朝駆け」という策略も認めませんで
した。
しかし後白河法皇は夜討ちも朝駆けも認め、実行します。
結果として崇徳上皇側は夜討ちによって火をかけられ、大
敗しました。
後白河上皇側の公家たちは手段を選ばなかったというより、
「戦はその道の玄人である武士に任せれば良い」と考え、義
朝に任せたのです。
この戦いから生まれたのが、「夜討ち朝駆け」という言葉です。
夜討ちも朝駆けもすでにあったと思われる言葉ですが、それ
を組み合わせることによって、「敵の不意を衝く作戦」を意味す
る言葉となったのです。
ただこの戦いに敗れた崇徳上皇は、日本史上最強の怨霊と
化して行くのでした。