南北朝動乱が56年も続いたのは戦力絶対優位の北朝が内乱を繰り返したからです! | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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南北朝動乱は、約56年間も続きました。ただし北朝と南朝が

互角の実力を持っていたわけでは、ありません。

 

すでに北朝側は室町幕府を築いておりましたし、戦力的にも

最初から開きがあった上に南朝の主力だった楠木正成と新

田義貞らは早い時期に敗死しています。

 

そんな状況でも南朝が56年間持ちこたえたのは、三種の神

器を手にしていたこともありますが、最も大きいのは、北朝が

しばしば内乱を起こしていたことです。そのため南朝は4度も、

京都を奪還しています。

 

まずは1351(観応2)年、足利尊氏と足利直義の兄弟が対

立した「観応の擾乱」です。この時に足利尊氏は一時的に南

朝に帰順し、征夷大将軍も解任されています。この混乱に乗

じて南朝は、北畠親房らが侵攻し、足利義詮を追放して京都

を占拠しました。しかしすぐに、足利義詮によって、奪い返さ

れています。

 

2度目は翌年の1352(文和元)年、今度は「観応の擾乱」に

敗れた弟の足利直義の方が、尊氏と入れ替わるようにして

養子の直冬と共に南朝に帰順しました。南朝は直冬の軍と手

を結び、入京に成功しています。

 

3度目ですが、1355(文和4)年、足利尊氏に対する怒りが収

まらない旧直義派の桃井直常と斯波高常、山名時氏らと南朝

は手を結び、やはり入京に成功しています。

 

そして4度目、1361(康安元)年には幕府の実力者だった二木

義長と細川清が幕府内の政争の敗れて南朝に寝返り、彼らの

軍事力で南朝が入京を果たしました。しかし6年後に再び京都

を追われ、以後は大した攻勢に出ることもなく、三種の神器を盾

に粘っただけでした。

 

というわけで、南北朝動乱が長引いた理由は、北朝が混乱を繰

り返し、その都度敗れた側が南朝になびいたからなのでした。

 

室町幕府は前半は決して弱体でなく、幕府軍はむしろ強力でした

が、まとまりは最初からなかったことが、この動乱の中味を見れば

わかりますね。