本当に悲劇だったのは源義経より兄の源頼朝だった! | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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源義経が兄の頼朝に疎んじられ、追われた挙句最後は討たれ

た理由として、義経が建礼門院徳子をレイプするという蛮行を

働いたからだということを、以前書きました。

 

徳子は敵将・平清盛の娘ですが、一方で安徳天皇の母でもあり

ます。従って朝廷を愚弄する行為であり、義経を許したら朝廷と

の間柄がどうにもならなくなるのです。武家社会になったとはい

え、朝廷との仲、共存関係は保たなければなりません。

 

また、義経の人間性を語る逸話がいくつかありまして、たとえば

那須与一が見事に扇の矢を射抜いたとされる屋島の戦いの時、

与一のその見事さを称えて平家方の武者が舞を踊りました。す

ると義経は、「あの男も射ってしまえ」と命じて、射させてしまった

というのです。

 

このエピソードは、『源平盛衰記』に記されています。義経の取っ

たこの行動は、当時の武士道では絶対に許されない行為なので

した。この時代の戦はお互いが名乗り合って果し合いをするなど、

かなり厳密なルールに基づいていて、スポーツと間違うようなや

り方だったのは、知られるところです。従って、敵を称えるという

いわば「武士の美学」を実行している武士を殺してしまうなんてい

うのは、武士失格の行為なのです。

 

このエピソードでもわかる通り、義経の戦法は当時の「一騎討ち」

というルールを無視した集団戦法。ただ勝てば良いという形で集団

で襲い掛かるやり方でした。

 

この戦法は、部下にも不評だったようです。皆恩賞を得たいのです

が、集団戦法では、誰がどのように活躍したかがわかりにくいから

です。

 

こうした品格欠如のところへ、例の建礼門院徳子への蛮行です。頼

朝としても、義経を処罰しないわけには行きませんでした。

 

それでは、そんな義経が何故美化されなければいけなかったのか?

それは後の北条家の都合があったと思われます。鎌倉幕府における

源氏政権は3代で終結し、北条氏による「執権政治」が打って変わる

形になりました。というか、元々政権を実質的に握ったのは北条氏で

頼朝は「打倒清盛」のために利用されただけというのが真相のようで

す。

 

しかしそれが表に出ては、北条氏の世間に対する印象が悪過ぎます。

そうさせないためには、情報操作として、頼朝を悪者にする必要があり

ました。そのためには、頼朝に疎んじられて討たれた義経を美化するこ

とが、効果的だったわけです。

 

義経の数々の美談は、北条氏の情報操作だったと思われます。そうな

ると気の毒なのは、頼朝ですね。利用された挙句、後世に悪者として伝

えられたわけですから。本当の悲劇のヒーローは、頼朝かもしれません。