平安時代において最も隆盛を誇った権力者といえば、藤原道
長が思い浮かぶでしょう。ただこの人は、文人として、そして政
治家として優れていたイメージで、体育系のイメージもエピソー
ドも全く残っていませんね。
その藤原道長に政争で負けたのが彼の甥に当たる藤原隆家
でしたが、彼は自ら望んで大宰府長官になります。
藤原隆家はその任務にいた1019(寛仁3)年3月、ツングース
系女真族が中国大陸を南下し、対馬や壱岐、さらには北九州の
沿岸地域に侵入し、略奪や殺戮を繰り返す事件がありました。後
に「刀伊の入寇」と呼ばれるものです。
この女真族はかなりの強豪でしたが、藤原隆家は迎え撃ちました。
現地の兵と諸豪族をまとめて指揮を執ると共に、自らも武装して
戦いました。
敵の矢は長さ一尺余りで盾を貫くほどの強さでしたが、藤原隆家
率いる日本軍は見事にこの異民族を撃退したのです。
隆家は陣頭指揮だけでなく武闘派としても優れ、その戦いぶりは
後の世の戦国武将に負けないものだったそうです。
というわけで平安貴族、しかも上級貴族としてはかなり異色の存在
ではありましたが、それだけに政争は苦手だったのかもしれません。