ライバルが乱闘及び殺人事件を起こしたために関白の座が転がり込んだ藤原道長 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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996(長徳2)年、時の関白・藤原道隆の息子である藤原伊周

が、花山法皇を狙撃するというとんでもない事件を起こしました。

 

理由は、誤解。自分が通っている娘のところへ法皇も通ってい

ると思い込み、従者に矢を射かけさせたのでした。

 

これだけでも常軌を逸しているのに、その後伊周は花山法皇と

鉢合わせをした際、怒りにまかせて乱闘事件を引き起こしまし

た。さらには法皇の従者である童子2人を殺害して首を持ち去

ったというのです。

 

本来なら死罪でも不思議はないところですが、先日書きました

ように平安時代の350年間は祟りを恐れて死刑執行が行われ

ませんでした。民間人においても、そうです。

 

ということで藤原伊周は、大宰府に左遷されます。単なる左遷

とは大甘ですが、そちらでも窓際で仕事も権限も自由も与えら

れぬまま過ごしたわけで、いわば飼い殺し状態。関白最有力

候補だった人物にとっては、辛いところではあったでしょう。

 

その藤原伊周の失脚によって関白の座についたのが、藤原道

長です。平安時代において最も栄華を築いたとされる藤原道長

は、筆頭候補のとんでもない蛮行によってその座に就いたので

した。物事、わからないものです。