古代日本の「サケ文化」の推移が物語る朝廷との関係 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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「酒」では、ありません。魚の「サケ」です。日本では石器時代

から縄文時代にかけて、「サケ文化」が真っ盛りでした。

 

東北、関東、中部の貝塚から、サケの骨粉が層をなして出て

くるそうです。かなり大量に捕れたことが、わかります。特に

東北地方では、石にサケの姿を彫った遺物も出て来ていて、

これはサケの収穫を願う村の信仰があったことを物語ってい

ると思われます。

 

ところが古墳時代から奈良時代にかけて、サケの消息が途絶

えてしまうのです。痕跡を示す遺物がなくなりますし、神話にす

ら出てこないのです。

 

それが、平安時代になると、急に復活します。宴会にはサケの

塩漬けが必ず出されましたし、旅行にも必需品になったそうです。

 

これには、確固たる理由があるとしか、考えられません。気温の

問題などもありますが、人間による意図的なものも、あると思わ

れるのです。

 

そこでやはり出てくるのが、「東日本朝廷」の問題でしょう。大和に

朝廷が築かれますが、それが完全な統一国家につながったとは

思えないのです。東北に、縄文時代から続くもう1つの朝廷があっ

たであろうことは、今では「常識」とされています。

 

そして「サケ」は東日本の産物でしたし、その文化も東日本朝廷を

中心としたものでしたので、西日本の朝廷としては、一切をシャット

アウトせざるを得なかったのでしょう。

 

ところがそれが何故、平安時代に復活したか?それは、平安時代

の最初の時代に、坂上田村麻呂らによる東日本(蝦夷)征伐があ

り、実質西日本朝廷が統一した形にんあったからかと思われます。

東北地方の産業や文化に、京都の朝廷が堂々と手を出せるように

なったからと考えるのが、妥当ですね。

 

今後は「東日本朝廷」に関する考察や研究が、どんどん深まること

と思います。