1度目の「元寇」の後自ら攻め返そうとしていた鎌倉幕府がそれをしなかった理由 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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1274(文永11)年、元、今のモンゴル帝国が日本に対し

て服属を迫り、それを日本が拒否すると、高麗軍と連合し

たおよそ3万人の元軍が日本へ襲来しました。

 

いわゆる最初の「元寇」でして、「文永の役」とされています。

最初のうちは日本は「我こそは・・」と1人1人が名乗り出て

一騎打ちをやる原始的な方式で応戦したため苦戦したもの

の、すぐに集団戦に切り替えて、どうにか対応し、元軍は自

らの意思で引き返しました。

 

ただ鎌倉幕府も、これで済んだとは、思っていません。再度

の襲来を、懸念します。それで、相手が攻め入る前にこちら

から攻め返し、機先を制することを考えました。高麗軍が多

数加わっていたため、日本と近いその高麗だけでも攻め落と

しておこうと考えたのです。

 

しかしその計画は、頓挫しました。理由は、兵士が集まらなか

ったからです。あからさまに出兵を拒否した御家人も数多く、

応じるとした中にも、部下のリストに高齢者ばかり並べて幕府

をわざとがっかりさせる者がほとんどで、およそ臨戦態勢にほ

ど遠かったのです。

 

こんな惨状でありながら2度目の元寇を退けたのが後世には

奇跡に映り、「神風」が吹いたというような都市伝説が長らく信

じられたわけです。

 

ただその「朝鮮出兵」の計画が頓挫した後、幕府も別な案を考

えました。これは以前にも書きましたが、九州の元が攻め入る

であろうコースの海岸に、大きな柵を張り巡らせ、上陸が出来

ないようにします。そのため元軍は船での待機を余儀なくされ

ました。そうしているうちに、日本特有の台風の季節、そして日

本海の大荒れの季節が重なりました。

 

なので、元軍の待機船たちが台風に見舞われたことは、本当で

しょう。そこを狙って日本軍が攻め入ったわけでして、これは気

象条件を計算に入れた作戦勝ちでもあります。「神風」とは、ち

ょっと違います。

 

また、地の利が生きたわけでして、ホームの強さです。逆にこち

らから高麗や元に攻め入っていたら、アウェイになるわけで、どう

なっていたかわかりません。なので、朝鮮出兵が頓挫したのも、

ラッキーだったのかもしれません。