足利直義の肖像画が長年「源頼朝像」として紹介されてきたことに関連する或る因縁。 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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室町幕府初代将軍となった足利尊氏とその弟である足利直義

が性格がまるで違い、最初は仲が良かったのに後に戦う羽目

になったことは、先日述べました。

 

1338年、足利兄弟は北朝の光明天皇と組み、元号を「暦応」

として政権を始めます。

 

ただこの元号に対し、直義は当初、異を唱えておりました。武を

もって国を制した後は、文をもって治め王道を行かねばならない

とし、年号には「文」という字を入れるべきだと主張したのです。

 

これに対し、尊氏も異論があったわけではありません。実は「文

武両道」という言葉、最初に言ったのは足利尊氏です。「文と武

は両輪のようなもので、どちらが欠けても人間としての安定を欠

く」として述べた足利尊氏の四字熟語が、今もよく使われるので

す。

 

ということで、元号の名は受け入れなかったものの、「文」を大事

にするという直義の意見は尊氏も充分取り入れるはずでした。

 

しかし尊氏を慕う人間には武闘派が多く、なかなか「文治政治」

にはなりません。

 

そんな中、直義が目指したのは、鎌倉幕府の継承でした。鎌倉幕

府を統治していた北条政権は、当初は荒くれ集団で教養に欠けま

したが、途中からそのことに危機を感じて猛勉強し、やがてはイン

テリ集団に変わっていたのです。

 

むしろ、後醍醐天皇の息子たちがそうだったように、貴族の中に荒

くれ者が増えていたのです。「文武」の「文」の方に、逆転現象が起

きていました。

 

直義は、「鎌倉幕府を倒したのに鎌倉幕府の政治をやるのでは、倒

した意味がないじゃないか」と笑う者もいましたが、直義はめげずに

それを目指しました。

 

だか鎌倉幕府の創始者と肖像画を間違えられたわけではないでしょ

うが、何かしらの因縁を、感じてしまいます。