戦国時代で最も恥じな評判が後世に残ってしまっているのが、
今川義元でしょう。桶狭間の戦いでは、自分たちよりはるかに
小軍の織田信長に敗れ、「評判倒れの弱い戦国大名」との不
名誉なレッテルが定着してしまいました。
また、武士の生活を嫌って貴族の真似をしていたとも、言い伝
えられます。
この人、父ではなく母親の今川寿桂尼がかなり強い戦国武将
だでして、その母から地盤を引き継いでいるために、少々変わ
っていたところはあったかもしれません。
しかし彼が死んだ後、弔い合戦として織田軍に突入し、戦死し
た者が、200人余りいたそうです。義元の仇を討とうとし、その
ためなら命も惜しまないという人が、それだけいたのです。
また、弔い合戦とは別に、「どうか主人の首を返して頂きたい」
と信長に直談判した重役も、いたそうです。
いかに今川義元が部下に慕われていたかを物語るものですが、
こうして忠義を尽くそうとする人間が後を絶たないというのは、
義元が決して人がいいだけでなく、優れたリーダーシップを持っ
ていたことの証明でもあります。
戦国武将の中で、最も過小評価されている人物とも、言われて
います。まあ、負け方が劇的だけに、織田信長の引き立て役に
なってしまうのは仕方のないことでもありますが。