源平合戦と呼ばれる戦いが実質「平氏の内輪もめ」だったの
は最近では知られるところですが、そうは言っても平清盛に
反旗を翻して源頼朝を後押ししたのは、北条氏を始めとする
関東平氏の面々です。
そんな中、例外がいました。平忠盛と池禅尼の息子で清盛と
は異母弟に当たる、平頼盛です。
平清盛が後白河院と対立した際、後白河院と近い立場である
ことを理由に清盛から官の職を一度、頼盛は解かれています。
それが1179(治承3)年、清盛がクーデターを起こした時のこ
とでした。翌年清盛は、自らに誤解があったことを認め、平頼
盛の政界復帰を認めています。
しかし一度できた「清盛グループ」との溝は埋まらず、1183
(寿永2)年には平家から脱走しています。源義仲との戦いで
平家一門は一度都を明け渡していますが、その際頼盛は「忘
れ物をした」と言って引き返したまま、行方をくらましたのです。
翌1184(元暦元)年には、どう取り入ったのか、源頼朝から
没収されていた領地を返してもらったどころか、権大納言の地
位まで得ています。
これは、かつて源頼朝が平家に捕えられた時、池禅尼のはか
らいで命拾いをしたことが、影響しているものと思われます。
その時の恩返しとして、池禅尼の実子である平頼盛に対し、
寛大な処置をしたのでしょう。