本当は話題に尽きないはずなのに知られていない将軍・藤原忠文。 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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先週、初の征夷大将軍である大伴弟麻呂について書きました。

この人も影は薄いですが、同じくらいかもっと影が薄い藤原忠

文という将軍がいました。


しかしこの人は本来、話題に尽きないはずの人物です。もっと、

語られても不思議のないはずなのです。


まずは、将軍の座についたのが、940(天慶3)年のことです。

この前年、すでに挙兵していた平将門が新皇を名乗り、勢いを

増していたために、任命されました。つまり、平将門を鎮圧する

ために、任命されたのです。


正式な名称は、「征東大将軍」でした。ただし「征夷大将軍」が元

々蝦夷を鎮圧するための名称だったことを考えれば、「征東大将

軍」も「征夷大将軍」も意味や役割はまるで同じと考えて良いでし

ょう。


平将門が倒れるとすぐに彼の役職名は、「征西大将軍」に変わり

ました。将門とほぼ時期を同じくして乱を起こしていた藤原純友を

鎮圧するためです。


藤原純友と平将門は、有名です。平将門は、NHK大河ドラマの主

人公にもなりました。彼らを鎮圧するために将軍に任命されたの

だから、もっと話題になっても良いはずですね。


それと、将軍の座についたのが、68歳。歴代将軍の中で、最高齢

記録です。中高年の星でも、あるはずです。


しかし語られないのは、彼がほとんど功績を残していないからでし

ょう。ただそれにしたって、彼が無能だったからではありません。任

命から1ヶ月にして、平将門は従兄弟の平貞盛に討たれ、「征西大

将軍」に変わった時には藤原純友も弱体化していました。


つまり、本来は部下であるはずの兵たちが優秀な働きをし過ぎてい

て、何もしなくても乱が鎮圧されてしまったということです。運が、良

かったのです。まあ、運も実力のうちなんですけどね。


ただ藤原忠文の話題は、これで終わりません。彼は「乱鎮圧」に関

して、何の恩賞も、与えられませんでした。そのことを恨んで、怨霊

となったそうなのです。


そして、恩賞に大反対した藤原実頼の子女を、祟り、不幸に導いて

います。平将門の怨霊はつとに有名ですが、藤原忠文も、怨霊と化

しているのであります。


影が薄く、功績も定かでありませんが、話題は尽きないでしょう。ミス

ターマニアックの私としては、ぜひ注目したい人物です。