「市松模様」の語源で改めてその大スターぶりが窺える佐野川市松。 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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何か東京オリンピックのエンブレムに関するニュースで、盛

んに「市松模様」という言葉が行き交っていましたね。


私は2012年7月9日と2014年5月22日の2回、この市松

模様の語源となった江戸時代の大スター佐野川市松につい

て記事にしています。


しかし、「市松模様」という言葉、生地が今でもポピユラーな

ものだということは、実はあまり知らないのでした。というよ

り、「市松模様」よりも佐野川市松に関しての知識の方が、先

行してしまっていたのです。


この佐野川市松ですが、山城国伏見で武士の子として生ま

れ、芝居小屋の出方・甚蔵の養子となります。ただ子供時代

から、その美形ぶりが目に付いたのでしょう。若女形・佐野川

万菊の門弟になり、子役デビューしています。


恐らく門弟になったのもスカウトされてのものでしょうし、芝居

小屋に養子として行ったのも、そっちに適性があったからと思

います。


佐野川市松はその後まもなく、若衆役のスターとなります。そ

して1741(寛保1)年、江戸に下り、「高野心中」という作品で

のお小姓役を演じますが、それが大当たりとなります。


この時の石畳模様の衣装は「市松模様」と呼ばれ、大ブーム

となったのです。


「市松模様」の衣装をまとった佐野川市松の姿は多くの売れっ

子絵師たちに描かれ、彼自身の美貌ぶりとその衣装が広く紹介

されていきました。


とにかくその美貌ぶりは常に語り草になっていたようで、今のよ

うにマスコミが発達していなかった当時でさえ、追っかけやスト

ーカーまがいのファンにつきまとわれていたそうです。


まだまだ活躍が期待された39歳の若さで突然この世を去った

のも、後々まで消えない伝説の元になっているのでしょう。


しかしそれから250年以上が過ぎた今でも「市松模様」という

言葉やデザインが続くというのは、改めてその大スターぶりが

窺えますね。