サンフランシスコでも大人気だった幕末最大の軽業集団・早竹虎吉一座。 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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早竹虎吉は、文政時代頃に京都で生まれ、長く大坂の道頓堀

を拠点に活躍した軽業師。というか、曲芸の芸人でした。


やがて一座を率いて大坂から江戸へ下り、初めて両国広小路

で興行を行なったのは、1857(安政4)年のことです。これが超

大盛況でして、しかも歴史に残るほどの大評判となりました。


虎吉の曲芸は、独楽(こま)、手品、綱渡りなど多様な芸を巧みな

構成の基に織り交ぜていくものでして、華やかでバラエティー豊

か。人々を飽きさせませんでした。


中でも人気だったのは、「富士の旗竿(はたざお)」という演目です。

これは、富士山の裾野で巻狩りをするという趣向です。巻狩りとは、

狩場を四方から取り巻いて獣を捕まえる手法のことです。


富士山の絵をバックに虎吉が立ち、3メートルある長い旗竿を肩

に乗せてバランスを取り、両手には三味線を持ちます。肩に乗っ

た旗の先には、可愛い子役が乗っています。この子役は、虎吉が

かきならす三味線に合わせて、竿の上で逆立ちをしたり、大の字

にぶら下がったりするのでした。


ということで、早竹虎吉の名前ばかりが有名になって後世に伝え

られるのですが、この子役もかなりのものなので、この記事では

「早竹虎吉一座」として扱いました。


この「早竹虎吉一座」は、江戸進出の10年後の1867(慶応3)年

にはサンフランシスコに渡り、アメリカの観客を大いに湧かせたそ

うです。


ただでさえ日本の軽業のレベルは高かった上、明治時代に入ると

失業した忍者たちが再就職にサーカスの道をこぞって選んだため、

更にレベルが上がって、サーカス・軽業が一大ブームとなり、世界

的にも評判を呼んでいきました。