小田原北条氏の残党が開発した現在の小平市小川町。 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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小田原北条氏というのは、北条早雲とその子孫のことです。

しばしば鎌倉幕府で執権政治を行なった北条氏と関係あり

と思われたりするようですが、まるっきり関係ありません。


戦国時代にその北条氏が滅び、家臣たちは討ち死にするか

逃れて機をうかがうか、武士を引退するか、それぞれでした。


現在の武蔵村山市岸に当たる岸村という所に逃げ延びた、

小川氏という家臣がいました。さほど位は上の方でなかった

ようなので、武士としての再起をうかがうよりも、開拓者の道

を選んだようです。


この小川氏が有名になるのは、江戸時代に入っての小川九

郎兵衛からです。祖先の小川氏にもさすが北条氏に仕えた

だけあって開拓者の才能があったらしく、九郎兵衛の頃には

大地主になっていました。


1654(承応3)年に江戸幕府が玉川上水を完成させると九

郎兵衛は、新田開発が可能と見て、それを申し出ました。


青梅街道はすでにありましたが、以前にも書きましたように

徳川家康が幕府への攻撃を防ぐために甲州街道を除く全て

の道路をくねくねと複雑にしてしまったため、街道沿いの開発

が遅れていたのです。


この青梅街道も、田無村と箱根ヶ崎の間の20キロ(当時で

言うと五里)がとても寂しく、盗賊がしばしば出て旅人を襲い

ました。また、途中で空腹になっても、店がありません。


ということで九郎兵衛は原野の開発に乗り出し、旅人たちが

休息できる場所を設けたのでした。当初は「小川新田」と呼ば

れましたが、開発の範囲が後に更に広がったため、1725(享

保10)年、先に開発された場所を「小川村」と呼ぶようになり

ます。


それが、現在の「小平市小川町」になります。この町、小川が

流れていたからつけられた名前と思われがちですが、実は人

の名前から取ったものです。