江戸幕府成立直後に伊達正宗がスペインに支倉常長をスペインに派遣した理由。 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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今年は、支倉常長が伊達正宗の命でスペインを訪問してから、400年の

年だそうです。その一行の中には、日本に帰らずそのままスペインの地に

住みついてしまい、小規模な日本人村のような場所も出来ているそうです。

そしてそれが、ユネスコの「世界記憶遺産」に選ばれたということです。


良いことだし、日本人としては、嬉しいことです。それと同時に、この支倉常長

の派遣には、謎も含まれていて、とても興味深いのです。


まず、この派遣が1613年。徳川家康が江戸幕府を開いたのは1603年とさ

れるので、それより10年後ということになります。


最近になって、「日本は実は鎖国をしていなかった」という説が、真実味を帯

びています。自然な流れでオランダがヨーロッパ諸国の中でほぼ日本と独占

契約のような形で国交を深めたので、他国は手を引いたということです。


実際、日本は明確な「鎖国宣言」というのを、一切していませんし、オランダを

通じて欧米諸国の製品や情報は頻繁に入ってきていました。


そして、幕府成立直後とはいえ、このような伊達正宗の海外への行為が行な

われているところを見ると、鎖国という大がかりな発想に向かう気配とは裏腹

な気がします。


また、伊達正宗が望んだスペインとの貿易は、最終的に断られているのです。

スペインは、それまで日本との国交を望んでいた国の一つでした。それが何故、

という疑問が生じます。


伊達家は、仙台にフランシスコ派の司教区を設け、最恵国待遇及び領事裁判

権まで与えようと持ちかけているのです。


そこまで言っているのに、何故?しかも、そのままスペインに住みついてしま

った人間もいるくらいですから、話し合いは和やかでスペインのもてなしも暖か

かったと思われます。


実は支倉常長は、スペイン国王らに、政宗が次期将軍と日本国内で見なされ

ていて、スペイン国王の同意さえあれば実力行使で将軍の座につく用意がある

と、告げていたようなのです。スペインは当時、世界屈指の軍事大国でした。

もっとも、日本の軍事力も世界屈指と見られていたようですが。


要するに、仙台とスペインで軍事同盟を結び、徳川幕府を倒し、伊達正宗は将軍

の座に就こうとした。そう考えられるのです。


スペインも、日本の内情には、かなり詳しかったと思われます。江戸幕府開設は

当然知っていましたし、たとえ伊達正宗に力があったとしても、彼が将軍の座に

つくにはまた新たな内乱や混乱を経なくてはならないことは、見えていました。


スペイン側は、日本のそうした内乱に加担することを、嫌ったものと思われます。

この交渉が不調に終わった後、伊達正宗は徳川家康に急接近しています。


それにしても、スペインとの交渉に成功していれば、仙台に幕府ができ、その後

首都になっていたかもしれない。そう考えると、非常に興味深いです。


ユネスコ「世界記憶遺産」に選ばれたことで、その辺の話題が再燃されれば更に

面白いと思います。