日本の歴史上、「おもろい夫婦」の代表例として挙げて良いと私が断言
するのが、日野富子と足利8代将軍・義政夫婦です。
日野富子は銭ゲバの悪女、足利義政はダメ将軍というレッテルのみが
有名になっていますが、そんなのは、ほんの一面に過ぎません。
実は二人につきまして、私はこのブログを始めたばかりの2011年12月
1日、8日、15日の3回に分けまして記事にいたしました。そして3回目と
なりました15日の記事の中で、「二人につきましては面白すぎてまだ書き
足りないので、折りを見てまた書きます」と宣言しているのですが、その後
1回だけ義政が元祖となった「わびとさびの精神」について触れたのみで、
今日に至ってしまっているのです。
ということで、足利義政について久々に触れるのですが、先の3回の内容
を詳しくここで振り返る余裕はないので、よろしかったらお手数ではありま
すが検索をしてみて下さい。
ただしその中で、義政の知られていない特徴だけは、紹介しておきます。
彼には40人以上の側室が、いました。この数は、豊臣秀吉や徳川11代
将軍・家斉に匹敵します。しかし、秀吉や家斉には、金がありました。権力
もありました。
対して義政はただでさえやる気のないダメ将軍だった上、その座も30代
前半で放り出して隠居の身になっておりますので、権力はありません。金
に関しては、もっとありません。金貸しや相場で大儲けした妻の日野富子
の実質ヒモで、財布のひもの方はしっかりと握られていたため、質屋通い
までしたくらいです。
ですから、40人以上の女性に対して金銭の面倒を見れるはずはなく、逆
に借金までした始末です。ですから、側室という言葉が適切なのか、わかり
ません。それでもとにかく愛人が記録的な数いたのですから、正真正銘、
「モテ男」の代表なのでした。
何故そんなにモテたか。それは、彼の芸術的才能が大きかったと思います。
茶の湯というと千利休を思い浮かべますが、彼はあくまで極めた人です。義政
は若くして隠居の身になった後、連日「茶会」を開いておりました。この会が
なかなか風流に富んでいたようでして、広く客を呼び、茶の湯は世間に浸透
していきました。
やがて有力僧侶や大名までが、茶の湯をたしなむようになり、「わびとさび」と
いう精神が日本全体に浸透します。つまり彼は、「わびさび」の元祖だったの
です。
また、義政の実績としてよく知られるのが、銀閣寺の建立です。しかしこの「銀
閣寺」という名称は後付けでして、実際には銀など貼られていません。その理由
について、日野富子が資金を出さなかったからなどと説もありましたが、全くの
嘘。富子が金を出さなかったらそもそも何も立てられなかったはずで、彼女は
資金を出しました。
銀が貼られていないのは、義政が最初から木肌を露出させた姿を構想していた
からです。
義満が建立した金閣寺は幕府の威光を示すのが目的でしたが、銀閣寺に関し
ては、義政があくまで芸術性を追求しました。そのために、金ぴかや銀ぴかは、
ハナから嫌ったのです。
銀閣寺は東山山荘の中にあり、この山荘自体、義政によって造営されています。
従って、銀閣寺の正式名称は「東山山荘観音殿」です。そして、山荘造営のツボ
は、庭の名石や名木、さりげなく使われた高級建材など、目立たない部分での
工夫と手のかけ方にあります。それが、人々の癒しにつながるのです。
義政はそうしたことをわきまえ、銀閣寺も、山荘造営の基本に乗っ取り、癒しの
芸術、いわば「わびさび」の延長ともいえる芸術を追求したのです。
こうした面での才能とセンスが日頃のふるまいにも表れていたから、多くの女性
の心を惹くことができたのだと思います。