幕末薩摩藩の見事なまでにやりたい放題の経済活動 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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倒幕の先頭に立った薩摩藩ですが、その基礎は1820年からの藩政改革

の成功にあったと思われます。ただ、単に「改革」とだけ呼ぶには、やり方

が過激でした。


まず、1827年、家老の調所広郷が、藩債の整理、砂糖専売の強化、琉球

貿易の拡大などを積極的に行ない、破綻寸前だった藩財政を好転させまし

た。と、ここまでは、真っ当です。


ただその後、幕府に対して「琉球人困窮」を理由に、薩摩と琉球領内に限り

運用できる「琉球通宝」の鋳造を許可して欲しいと申請しました。


この時、琉球が本当に薩摩藩の言うほど困窮していたかは、疑問です。また、

薩摩藩は幕府と朝廷を結ぶ公武合体策の推進に奔走していたため、その

役割の放棄をちらつかせての交渉でもありました。


やがて幕府は断れず、3年で100万両以内という条件で許可を出しました。

しかし薩摩藩はこの条件を無視。3年で290万両。規制の3倍近くを、製造し

てしまうのでした。


また、当初は幕府発行の天保通宝と同じ形の銭に「琉球通宝」と刻んでいた

のが、途中から幕府発行と同じく「天保通宝」という文字に変えてしまいます。

これは、貨幣偽造。偽貨幣の発行です。


藩内にある梵鐘や仏具といった銅製品をかき集め、偽貨幣を作り続けたので

した。こういうことを堂々とやる方もやる方ですが、取り締まれないほどに、幕府

が弱体化していたのです。


こうして薩摩藩は懐を潤し、その資金で欧米の武器を購入して力を増していっ

たのでした。