九州が独立国だった10年余り | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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1867年にパリで行なわれた万国博覧会で、日本が出品している

にも関わらず薩摩藩がそれとは別の独立国であることを名乗って、

独自に出品していた話、以前にもこのブログで何度か紹介させて

いただきました。


実はそれよりはるか昔にも、薩摩を含む九州全域が実質独立国だ

った時期があります。


これは、南北朝の時代。後醍醐天皇を中心とする「建武の新政」が

崩れた時、後醍醐は勢力を盛り返すために皇子を各地に派遣しま

した。この際、九州を担当したのが、懐良親王でした。


彼は、優秀なブレーンに恵まれ、更に肥後の菊池一族のバックアッ

プも受けて勢力を固め、足利幕府が送り込む北朝勢力を次々にな

ぎ倒していったのです。


やがて本拠地を熊本の隈部から大宰府に移し、1359年から10年

余りに渡り、九州全域を治めました。単なる武力支配でなく、もうひ

とつの幕府、つまり政府をつくって独立国として立派に機能させてい

やのです。


ただ、弱体幕府の代名詞のように言われている室町幕府とはいえ、

天下を取ったばかりのこの時です。政権奪取したばかりの民主党

の勢いを軍事力に差し替えたぐらいの強さは、ありました。


ということで、1371年、切り札の今川貞世を九州探題として送り出

したあたりから、懐良親王側はじわじわ押され、大宰府は陥落して、

独立政府は破綻したのです。ただその後も親王は、元の本拠地で

ある隈部に戻って抵抗を続けたそうです。


その隈部城跡は、熊本県菊池市にあり、菊地神社が鎮座しています。


尚、後醍醐天皇といえば、「セックスのエクスタシーと悟りを結びつけ

る」という教義の真言密教・立川流の熱心な信者であることを、私も事

あるごとに触れてきました。そのパワーが建武の新政をもたらしたと

も言えるのですが、その教義とパワー、息子の懐良親王にも受け継が

れたのか?


残念ながらその辺はまだ資料不足でして、今後ぜひ調べたいと思います。