小西行長は豊臣秀吉に仕え、物資の海上輸送の責任者を務めるなど、
その信任は非常に厚いものでした。
また、文禄・慶長の役において際立った統率力を示すなど軍師としても
優れていて、秀吉だけでなく部下からの信頼も大いに集めていたようです。
一方で敬虔なキリシタンキリシタンでもあったため、戦いそのものを好む
タイプでなく、講和交渉を進めたり庶民を巻き込んで犠牲にしないよう
に取り計らうなど、人格者でもあり、誰からも好かれていました。
そんな行長ですが、関ケ原の合戦では当然の如く豊臣軍につきます。そ
して記録上は伊吹山中で村人に捕えられて家康側に引き渡されたとな
っていますが、内容はだいぶ違っていました。
関ケ原の庄屋・林蔵主はその日、山中を歩いていると、
「そこの人、来てくれ」
そう声をかける落人がいます。
近づくと、その落人、自らを小西攝津守と名乗り、「内府(家康)のもとに
連れて行き、ほうびを取れ」というのです。村では、落人にひどい仕打ち
をしないよう、申し合わせとお触れの両方が出ていた上、小西行長は村
人からも慕われていました。林蔵主は恐縮し、
「とんでもない。早く逃げ延びて下さい」と言います。
しかし行長は、
「自害するのはたやすいことだが、われはキリシタンである。キリシタン
の法では、自害は禁じられているのだ。だから、私を捕えてくれ。そなた
がその報奨金を使いたくなければ、村の生活がよくなるために使うと
良いではないか」
そう林蔵主を説き伏せたのです。
やむをえず林蔵主は小西行長をとらえ、関ケ原領主の竹中重門の家老
に事情を話します。その後、行長は護衛されながら、家康陣営に引き渡さ
れ、林蔵主にはほうびとして金10両が与えられました。
行長の言葉通り、それは村の財政のために使われたようです。
この話を細かく詳しくやると涙が出て今日の撮影に影響がでそうなので、
この辺にいたします。