徳川吉宗の質素倹約政策の影にバラマキ政策のライバルがいました。 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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徳川8代将軍で、「暴れん坊将軍」の一応モデルでもあった徳川吉宗。

彼は庶民目線と、それに伴う質素倹約政策が特徴でした。しかし、勿論

これには、反対論もありました。


江戸時代において御三家のひとつと言われた尾張藩の藩主、超有力

大名・徳川宗春です。この人は、吉宗と正反対の考え方の持ち主でし

た。


彼は、君主が倹約するよりもせっせと金を使った方が経済が刺激され、

金銀の流通が活発になって、結果として庶民が潤うという考え方です。い

わば、現代のアメリカ型の、自由主義経済。いたって進歩的でした。


彼は祭礼を質素に行なうようにとの吉宗の指令に逆らい、「祭礼はとこ

とん賑やかに行なうように」と正反対のことを促しました。


また、工事などの事業や商業の発展のために、投資をしまくりました。つ

まり、バラマキ政策です。さらに遊びに関しても、芝居は勿論、遊郭の発展

をも促すという積極ぶりでした。


彼のやり方は、決して間違いではありません。この享保の時代、尾張名古屋

は日本一活気のある町でした。商業都市として飛躍的な発展を遂げたの

です。


しかし、ちょっと、エスカレートし過ぎたみたいです。というか、あまりにも吉宗

への反発と対抗意識にかられ、ムキになってしまったのだと思います。バラマ

キが度を超えたため、尾張名古屋のバブルは弾け、経済が破綻してしまっ

たのです。


そのため、1739年、吉宗が自ら尾張経済の救済に乗り出すことになり、宗春

は責任を取って謹慎を余儀なくされてしまったのです。


ただ、この宗春の負の部分だけでなく、功績も、後世に伝えられており、吉宗

も、そのやり方を全面否定はせず一理はあると思ったからある程度見守った

(勿論注意も促していましたが)ところもあったのです。


吉宗というライバル、目の仇を過剰に意識することなく、自然体で自らの考え

を推し進めていれば、また違う成り行きがあったのではないでしょうか。


私は、名古屋に詳しくはないものの、中日ファンだけに興味はあります。結婚

式がド派手とか、劇場が日本一多くて芝居好きが多いなんて話を聞きますが、

もし本当だとしたら、宗春の政策が走りだったのではないでしょうか。


かなり前の話になりますが、大学時代の同級生の愛知県人が名古屋で結婚式

を挙げた時に私も参加しました。ありがた過ぎる扱いを受けたのを覚えています。


ただ一方で、引き締めるところは徹底しているという話も、耳にします。中日

ドラゴンズのやり方を見ると確かに「出すところは大いに出す。しかし、必要の

ない金は出さない」という考え方が一貫しているのは、感じます。


この辺、徳川宗春の光と影を教訓にしての、伝統でしょうか。