「黄門様」の由来と実在した助さん格さんの正体 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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昨日水戸黄門のモデルとなった北条時頼の話をいたしましたので、今日

はモデルでなく、「黄門様」の話をしてみたいと思います。


テレビや映画の「水戸黄門」で定番のシーンといえば、葵の御紋を掲げて

「この紋所が目に入らぬか」と助さんがのたまうところです。


これ、何度か私の見た記憶では、「このお方をどなたと心得る」の後、「先

の副将軍・・・」とやっていたと思うのですが、以前は副将軍でなく「先の中

納言水戸光圀公・・・」というセリフだったそうです。言われてみれば、それ

も聞いたことがあるような。


そして実は、「黄門」という呼び名は、この中納言の別称なのです。


平安時代の文学や文献に「中納言」という言葉がよく出てくるように、これ

は、朝廷から与えられる官名でした。その役職が、武士の時代になっても

受け継がれていたのです。


朝廷の官制は中国の唐の律令制にならってつくられたものですが、本場

中国で、門下省という役所の次官を「黄門侍郎」と呼んでいました。


中納言は、中国の門下省と同じ役割に当たる太政官の、次官に相当しま

す。従って、中国の黄門侍郎と役割は一緒ということになります。そんなわ

けで、中納言光圀公を、「黄門様」と呼ぶようになりました。


光圀は水戸藩の中に、「彰考館」という学問所を設けまして、そこに置く一

番の目玉資料である「大日本史」の編纂に力を注ぎました。


その際、資料集めとして配下の者たちを諸国に出張させていたことが、諸国

漫遊記の物語に発展してしまったのです。


この彰考館の職員に、佐々木助三郎と、渥美格之進という人がおりまして、

この二人がドラマに出てくる「助さん格さん」のモデルと言われております。


二人とも「大日本史」の編纂に貢献はしましたが、助さんはもともと僧侶、格

さんは儒学者でして、剣術、武術の心得は全くなかったとされています。


二人が諸国に出張の旅に出ていたかは、意見が分かれているそうです。

まあ、編纂に当たって、二人の役目は編集部デスクといったところでしょう

か。それに監修も兼ねていた。諸国を廻るのは、一般的に考えれば記者

の役目ですから、この二人は違いますね。


いずれにしても、「水戸黄門」の話は、大いなるアレンジと北条時頼の話

などを寄せ集めた、壮大なフィクションだったのです。だからこそ、夢がな

いようであったのでしょう。