意外と優しかった織田信長 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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 「 真心こめた仕事に過ちがあれば

   福に変える心配りをするのが

     上に立つ者の慈しみである」


これは、結果が悪くてもそれが一生懸命やってのことであれば、決して

叱るのでなく、次に生きるような取り計らいをするのが上に立つ者の役目

である。ということを言っているのです。


心暖まる言葉ですが、これ、誰が言ったのでしょう。

答えは、織田信長です。信長というと、「泣かぬなら 殺してしまえ ホトト

ギス」ばかりが先行して、冷徹なイメージが世間に染みついてしまっている

ようなのですが、実際は、思いやりの深い人だったのです。


彼の残忍さを何より物語っているとする比叡山・延暦寺の焼き討ちですが、

これは実際にはやっておらず、暴徒と化した僧兵たちと麓の町で戦っただ

けであることが最近では判明しております。


そして、昨日触れた桶狭間の戦いですが、この勝因には、3つの説があり

ます。まず、突然大雨が降り、それに乗じて一気に攻め込んだという説。

そして、それが大雨ではなくヒョウであったとする説。更に、どちらもなく、

今川義元側の単なる油断と兵力の低下にあったとする説。


私は昨年10月6日のこのブログでヒョウが降った説をすでに採用してしま

っておりますが、実際「雨というには凄まじいもの」が降ったという記述は、

織田と今川どちら寄りでもない文献から見つかり、それを検証するとヒョウ

と見て間違いないことがわかっております。


また信長は日頃より天気を読むことに天才的に長けていて、その後の戦い

でも咄嗟に雨を読んで戦術を切り替え、それを勝利に結びつけたケースが

何度かあるのです。


そして私が考えるには、今川義元側の大量にガヤをつかっての人海戦術

が裏目に出たと思えるのです。これも昨年12月17日のブログで題材にし

ましたが、戦国時代は、戦の際に素人のガヤ、つまりエキストラ要員を日雇い

で大量に使うのが常でした。


その人たちは、戦の最中、騒いで威嚇したり、石や棒を投げたりといった行為

で雇われた軍に協力するのが最低限の仕事です。


それも、マトモなコンディションの中で正々堂々と戦うのであれば、効果があ

ったはずです。しかし、ヒョウが降るなど、混乱が起きた時などは、無駄な

騒ぎ方をしてプロの兵士たちの却って邪魔になったり、足を引っ張るケース

も出てくるのです。


今川軍は総勢2万5千ともいわれますが、名門だけに大量のガヤを雇った

と思われます。その人たちが時ならぬヒョウに動揺して混乱に輪をかけた。

そして信長は、逆にそのヒョウを読み、「いいか、この後天において時なら

ぬ変化が起こる。その時を心して待つのだ」と指示しているそうです。


そしてその通りに今川の大軍の大混乱を見計らってチームワーク良く攻め

入ったとすれば、小軍の勝利もうなずけます。


興味深いのは、この戦いの後、信長は、ガヤの採用をピタリとやめているの

です。そして、戦に向かう際に農民たちが見送りもせずのんびり野原で寝そべ

っているのを見て諌めようとする部下に対し、


「かまわん。我々は、農民たちがあのように平和に自分たちの仕事に専念

できるように戦をするのではないか」


と、何とも器の大きなセリフを吐いております。これは、彼自身の視野の広さ

もありますが、恐らく今川軍の混乱と失敗を敵将として目の当りにしての学習

効果もあってのことだと思うのです。


ところで、信長に関する数々の誤解、そして「殺してしまえホトトギス」の件

ですが、これには、取り巻く背景が多分に影響していたはずです。


信長の場合は、保守的な考え方に対抗した。単なる戦国武将としてだけで

なく、世の中全体に革命を起こそうとしていたのです。となると、当然既得権益

を守ろうとする敵も多くなりますので、少々過激なやり方をしないと持ちません。


そしてその革命が軌道に乗ったところで信長は倒れ、知恵のある変人・秀吉

が一時天下を取って、やがて柔軟で視野と価値観の広い、つまり全てを受け

入れる常識人の徳川家康で世の中が落ち着いた。そう思えば良いのではな

いでしょうか。


従って信長は、手段として「殺してしまえ」をやっていましたが、本当は「泣かせ

てみよう」も「泣くまで待とう」も持ち合わせていた人だったに違いありません。