白い猫と出会ったのは、冷たい雨の降る日だった。路地裏でぐったりとしているのを見つけて、放っておく事が出来なくて。本当は動物を飼っちゃいけないんだけど、せめて元気になるまではと思ってコッソリ連れ帰った。
すぐに大家さんに見つかって怒られたけど、弱ったままの仔猫を外に放り出すわけにもいかなくて。大家さんも、元気になるまでならとしぶしぶ承諾してくれた。…そして、そのまま居着いてしまった。
春。新入生を前に、僕は少し緊張する。新しいクラス、新一年生たちの緊張した眼差しが僕に注がれて。だから僕も、彼らにつられて少し緊張してしまうのだろう。
「ええっと…。じゃあ今から、出席を取りますね。名前を呼ばれたら、簡単な自己紹介をお願いします」
出席簿を開き、一人ずつ名前を読み上げる。呼ばれた生徒は緊張した面持ちで立ち上がる。本当に簡単な自己紹介に僕がわざと少しズレた質問をすると、クラスの中に小さな忍び笑いが起こって。その緊張が綻んでいく様子が、僕は好きだった。
生徒一人一人の顔を見ながら名を読み上げていて、僕の視線がある女子生徒で止まった。まだ緊張の解れていない固い表情で、自分の名が呼ばれるのをドキドキしながら待っている、そんな風情で。その顔に、見覚えがある様な気がしたんだ。
「じゃあ、次は…」
読み上げた名前に反応して、少女が弾かれるように立ち上がった。自分でも思ったよりも勢いが良かったのか、少女は少しびっくりしたような顔をして、そして恥ずかしそうに少し頬を染めた。
「や、元気があっていいですね。じゃあ、自己紹介をお願いします」
「は、はい。えと…」
少女は自分の名前と、まだ引越しをしてきて間もないこと、そして本を読むのが好きなことなどを簡単に言うとペコリとお辞儀をして座った。
ああ、あの時の少女だ。お辞儀をして顔を上げた時の、少しはにかんだ笑顔を見て僕はようやく思い出す。
少女は僕に気付いたのか、気付いていないのか。自分の順番が終わった事に安堵した様子で、ようやく表情を緩めていた。
結局、僕らはあの時のことを一度も口にする機会がなくて。君があの時のことを覚えているのかどうか少し気になっていたけれど、いつの間にかそれもどうでもいいように思えてきて。
少し内向的な君が、少しずつクラスに馴染んでいく様子を、僕はただ見守っていた。
二匹目の猫は、春が近づきつつある日に出会った。夕暮れの公園で、少女の小さな白い手にじゃれついていた。
痩せた細い体と抱き上げた時に感じた鼓動が、何故か懐かしく感じられて。あの日の猫が、時を越えてここに現れたような気がした。
新入生たちも少し学校に馴染んできた頃。珍しく仕事が早く片付いたから、早く帰ろうと思っていた時だった。
「若王子先生!」
校門近くで声を掛けられて、僕は振り返る。人懐っこい笑顔を浮かべて一人の生徒が僕の元へと走り寄ってきた。
「やあ、今から帰るところですか?」
「はい!先生もですか?一緒に帰ってもいいですか?」
弾むような声に、僕も何だか頬が緩んで。微笑んで頷くと、彼女は嬉しそうに笑った。
同じ事の繰り返しのように見える日常も、よく見ればそれは変化に富んでいて。くるくる変わる少女の表情は、まるで猫の眼のようだと思う。
少女の口から語られる日常は、時同じくして同じ教室にいるはずの僕の視点とは違っていて。その違いは、一体どこから生まれてくるのだろうと僕は不思議に思う。
それは、僕が教師だからだろうか。君が生徒だからだろうか。
ふわふわと繰り返される日常。降り積もっていく新たな記憶と思い出。それは、新たな僕を作っていってくれるような気がした。
思い出したくない過去も、過ちも、何もかもを覆い尽くすほどそれらが積ったら、全てなかった事に出来るのかな。
完全な第三者になろうと僕が作り出した『僕』は、いつまでたっても他人になれる事はなく。不安定に揺れる小さな船のように、ゆらゆらと暗い海を漂っているような気がする。
生徒たちに混じって冗談を言っている僕と、過去の出来事に今も苛まされている僕。一体どちらが本当の『僕』なのだろう。
「…若王子先生?」
不意に名を呼ばれ、僕は我に返る。どうやら少しぼんやりとしていたらしい。少女は不思議そうに僕を見つめていた。
「ああ、何でもありません」
作り慣れた笑顔を浮かべると、少女の瞳が一瞬悲しそうに揺れたように見えたのは気のせいだろうか?
「あの、先生…?お疲れなんじゃないですか?」
「え、どうしてですか?」
「えと、何となく…そんな気がして」
少女の言葉に、僕は小さく苦笑う。どうも彼女は、自分の事には疎いのに他人の感情には過敏なところがあるようだ。少し、気を付けなくては。
「そうなんです。実は今日も教頭先生に叱られてしまいまして…」
少しおどけて見せると、少女はふわりと楽しそうに笑った。
家に帰れば、いつものように二匹の猫が出迎えてくれた。甘えた声を出しながら足元に擦り寄ってくる茶色の小さな猫を抱き上げる。
グルグルと気持ち良さそうに喉を鳴らす猫を抱えたまま、ゆっくりと部屋に腰を下ろした。
いつかの猫も、どこかで元気にしているのだろうか?
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
若過去妄想シリーズ。
まだまだ続きます。
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