大学生になれば、もっと大人になれるんだと思ってた。一人暮らしを始めて、車を買って。大学とバイト先と、アパートの間を往復する毎日。時々、学友…というか、悪友と一緒に飲んで騒いで。
門限に縛られない、自由な毎日。経済的に楽ではないけど、面白おかしく騒いで、それなりに勉強して。時々何かが足りないような、そんな物足りなさを覚えたけど。でも、何が足りないのかも分からない。ただ、楽しく過ごせてりゃ良いかなんて思って、そんな物足りなさにも目をつぶって。それでいいと思ってたんだ。
初めて会った時に、真っ先に眼に入ったのはその制服。次に戸惑ったように笑う笑顔。たぶん、あの瞬間から惹かれてた。
「懐かしいなぁ…。俺もはね学なんだよ」
自己紹介も終わって、ふとつぶやいた一言にお前は眼をキラキラと輝かせて驚いて。その無邪気な反応を可愛いと思った。
仕事覚えも早くて、素直で細かい気配りも出来て。時々失敗もやらかすけど、完璧な人間なんてどこにもいない。失敗した後のフォローをしてやるのも先輩の務めだよな、なんて兄貴面して。そんな時に見せる申し訳なさそうな笑顔も、しょんぼりした顔も。たぶん、自覚するずっと前から好きだった。
忙しくて遅くなった日は、家まで送ってやったりしてた。それが次第に、ちょっと何処かへ寄り道するようになり、休みの日に遊びに誘うようになり。
可愛い後輩、妹のような存在。だから、色々とかまってやりたくなった。最初は、ただそんだけだった。バイト先以外でも会える時間が嬉しくて、楽しくて…。もっと一緒に居たい、なんてどんどんと欲深になっていく。
でも、まだそれがどういった感情なのか深く考えようともしていなかった。一緒に居て楽しい、今はそれだけでいいじゃないか。この感情の奥に潜む想いに気が付いたら…きっと、今まで通りに接することが出来なくなる。そんな予感があったから。
だから俺はいつでも『いい兄ちゃん』の役を演じてた。ホントは、その笑顔も、小さな手も、細い肩も、この腕の中に閉じ込めて誰にも触らせないように、そんな思いが渦巻いてたのに。
なあ、これは一体何の罰ゲームなんだろうな。俺はただ、お前と楽しく居られればいいと思ってただけなのに。
バイトの配達中、たまたま通りかかった母校の前。ちょうど下校時間だったらしく、制服姿の高校生がわらわらと歩いていて。確か、お前も今日バイトだったよな。見かけたらついでに乗っけてってやるか、なんて思ってその姿を何となく探してた。
そして見つけたお前の姿。軽くクラクションを鳴らそうとして…手が止まった。お前が一人じゃない事に気が付いて。その隣を歩く、その存在を認めて。
隣を見上げて笑う、その顔が。いつも俺に見せるそれとは違い、少しはにかんだような眩しい笑顔だった。何を話しているのかは分からない、だけどお前はすごく嬉しそうに笑ってて。ぎりり、と胸の奥の方が締め付けられるように痛んだ。
(当然と言えば当然、だよな…)
俺の知っているお前は、アンネリーに居るほんの短い時間だけ。そこを出れば、お前にはお前の生活が待っていて。学校には、友達や…気になる男もいるだろう。かつての自分がそうだったように。
俺はバイト先の『優しい先輩』に過ぎなくて。時々遊びに連れて行ってくれて、面白い話をしてくれて。ただ、それだけの存在なんだよな…。
速度を落としていた車のアクセルをゆっくりと踏み込む。せめて、お前が気付かないうちにこの場を去ろう。そして、この痛みも気付かなかった事にしよう。
大丈夫。まだ、そんなに深く惹かれてたわけじゃない。ちょっと可愛い後輩が居て、ちょっと気になっていた、そんな程度。だから、すぐに忘れられる。なかった事に出来る。
あいつが店に来たら、今日見かけたことをネタにからかってやろう。そしてあいつの恋を応援してやろう。また、いい兄ちゃんの役を演じればいいだけの話。今まで通り、何の変わりもない。
でも、きっとこの胸は、少しの間は痛むんだろうな…。そんな事を思った。
お前の恋を応援する優しい先輩でいようと決めてからしばらく経ったある日の事だった。
その日のお前は、どこかぼんやりとしていて。バケツはひっくり返す、オーダーとは違う花を包む、らしくないミスを連発して。幸いどれも事前に気付いた俺や有沢がフォローに入ったから、大したことにはならなかったけど。けど、ちょっと心配だった。
閉店後、遅番だった俺とお前で二人売り上げ計算してる時もボーっとしていて。
「…コラ。お前、今日は何そんなボンヤリしてんだ?」
「す、すいません…」
しょんぼりと肩を落とすから、俺は小さく笑って俯いたお前の頭を軽くポンポンと叩いた。
「あー、怒ってるんじゃないぞ?何かあったんじゃないかと心配してるんだ」
「真咲先輩…」
「俺に話せることなら、聞いてやるぞ?誰かに話せば気が楽になるっつーこともあるしな」
俺のその言葉に、お前は少し瞳を潤ませて小さく頷いた。
夜の海は、昼間とは違った表情を見せる。冷たい潮風に身を震わせたお前に自販機で買ってきたミルクティーを手渡した。
「あ、ありがとうございます」
「ん」
人気のない砂浜、波の音がやけに大きくて。俺は手もとの缶コーヒーを一口すする。海をじっと見つめたまま、お前は紅茶の缶を握りしめて少し思いつめた表情で。
「あの…真咲先輩?」
「なんだ?」
「もしも、ですよ?先輩にすごく好きな人がいて、先輩のとても大切な友達もその人の事が好きで、それを友達から打ち明けられたら…先輩なら、どうしますか?」
なんだそりゃ、とついいつもの調子で笑いそうになって…お前の思いつめた横顔にその笑いを引っ込めた。代わりに深く息を吸い込むと、肺の奥の方まで冷えた空気に満たされた。お前が思い悩んでいた理由は…それか。ふと以前に校門近くで見かけたお前のはにかんだ笑顔を思い出す。チクリ、と胸の奥が痛んだ。
「…大事な友達に、そんな話をされたのか?」
呟くように吐いた言葉は、白い息とともに夜の海へと溶けていった。お前はじっと海を見つめたまま、こくりと小さく頷く。缶を握りしめたお前の手が、小さく震えていて。
「私…、どうしたらいいのか、分かんなくて…」
ごくりと飲み下したコーヒーはぬるく冷めていて、変に甘ったるくて不味かった。
「そうだなぁ…。俺なら、どうするかなぁ…」
ふぅ、と息を吐きだす。空を仰ぐと、重たい雲が覆っていて星一つ見えない。まるで今の俺の胸の内を露わしてるみたいだ、と小さく自嘲した。
「私…もう、分かんない…」
呟いて顔を伏せたお前の細い肩が震えているのが見えて。その肩を抱きしめてやりたい、抱きしめて慰めて…全部忘れさせてやりたい。そんな欲求が胸をよぎる。
でも…。きっと、お前の求めてる腕は俺じゃなくて。その腕を欲すると、大事な誰かが傷つくのも分かっていて。どちらかを選ぶなんて酷な事を、優しいお前が出来る筈もなく。
いたたまれなくなって、伸ばした手でサラサラの髪をそっと撫でた。これ位の行為なら、きっと『ただの先輩』の俺にも許されている範囲。これ位のことしか、俺には出来ないから。
「う、うぅ…、せ、先輩…」
「うん、泣きたいなら好きなだけ泣け。傍にいてやるから」
「う、ふぇ…」
今まで堪えていたものが切れたのか、お前は俺の腕に縋ってボロボロと大粒の涙を落とし始めた。時々しゃくりあげて震える頭を、ただ撫でてやるしか出来なくて。
「…俺は、いつでもお前の味方でいてやるから」
お前が苦しくて辛い時、泣きたくて仕方がない時、いつでも傍にいてやるから。傍に居るしか、俺にはしてやる事が出来ないから。お前が望めば、いつだって傍にいてやる。いくらでも付き合ってやる。
だから…どうか、せめて今だけは。お前のその小さな肩を、この腕に閉じ込めてもいいか…?その涙を少しでも受け止めてやれるなら、その肩を抱きしめても構わないか…?
「先輩…」
腕の中にすっぽりと収まったお前は、小さく嗚咽を洩らしながら俺の服をぎゅっと握りしめていた。その手の温度がひどく熱くて…胸が締め付けられた。
散々泣いた後、お前がゆっくりと顔を上げた。抱きしめていた腕を弛めると、ゆっくりと俺から離れて行った。
「すいません、真咲先輩。泣いちゃったりして…」
泣き腫らした赤い眼で弱々しく笑う。
「いや、俺の胸でよかったらいつでも貸すぞ?それくらいしか、してやれることはないしな」
「ふふふ。もう、先輩ったら」
いつものようにふざけて笑うと、お前もいつもみたいな笑顔を浮かべてくれた。それが苦しかった。
なあ。俺の本心を知っても、お前はそうやって笑っていてくれるか?
優しい先輩面して、お前を慰めてるふりをして。でもその胸の内では、きっとお前の涙をどこかで喜んでいるこの俺を。
泣いて泣いて、さんざん泣いて。叶わない想いにいつかお前が諦めてくれたら…なんてことを考えてる俺の本心を知っても、お前は俺の傍にいてくれるだろうか?
きっと、一番罪深いのはこの俺なんだ…。
(続く)