昨日の「その一」に引き続き、

今日は「その二」を。




異郷に身を置くことで感じる郷愁。

日常と化してしまった鬱屈。

ますます強まる隠棲志向。


淵明の苦悩は続きます・・・




孔子は“四十にして惑わず”と言った…

それなのに私は、

未だ落ち着かず。



“社会性”というものにすっかり取り憑かれ、

“隠者”にもなりきれていない。




このように

隠者に憧憬の念を抱く淵明ではありますが…


しかし、もしかすると淵明の心には、

“隠者”を、

“隠者”と聞いただけで即刻“尊敬の対象”にして
しまう、そのような節が、
どこかにあるのではないでしょうか。

実際の隠者の“暮らしぶり”
その目で見ずして。


これについては、
森鴎外が晩年に『寒山拾得』の中で表現した
“自分の会得せぬものに対する盲目の尊敬”
という例えが釣り合うかと。



本当は、

“ただ故郷に還りたいだけ”

“しかし、立身への志は捨てきれない”



そもそも
世俗との関わりを完全に断ち切ることなど
(淵明の地位やその家系からしても)
淵明には不可能な試みであり、

そのことは淵明自身も十分に把握していて、


“断ち切れない”、からこそ、

より遠くに心を置きたい、
“離れたい”という想いが強まっていった、



あくまで淵明は、
“世俗を離れ隠者になること”、ではなく、

世俗との“付き合い方”
世俗から“離れる(距離を置く/一定の距離を保つ)
という、その物理的かつ心的態度”
趣を置いているようにも詩文から感じられます。



それが意図的なものか、恣意的なものか、
それとも、、、

淵明の本心はわかりませんが、


ただし無視できないのは、
この時代、官職を退き隠棲生活を送ることは、
“ひとつの風潮(ステータス)でもあり、

それは時に、
高みへ昇ろうと励むも、なかなか認めてもらえ
ない人たちが、それでもなんとかして
“立身や名声のために”と求める(再起のための)
振舞い(残された道 = 保身・待機としての行為)
でもあったということです。


つまり
世俗との関わりを断ち切るための隠棲ではなく、
社会での評価を気にした“カタチとしての隠棲”
(世に対する“積極的主張”としての身の置き方)




“ひとつの風潮”とは何か。

石川忠久『陶淵明とその時代』P.67 
第三節 隠逸の風潮 に、

およそいつの世に於いても、世俗の富貴栄達より超然たる
人物は、高尚の士として世の尊崇を得てきたが、ことに
魏晋以後の貴族社会に於いては、高踏の風を装う反面、
現世に執着する傾向が支配的であったため、
官職─顕貴と富の拠り所─を捨てて自適することは、
なし難く、従ってかかる行為をなし得る人物には、
いよいよ声望が集まった。(中略)

山水の間に風流な遊びをしたり、山林に隠れる人物を尋ね
たりすることが、自己の政治的・社会的不満をはらす手段
となったり、また、かかる行為によって名声を得、将来に
利せんとするような動きも、上流貴族の間に表れてくる。
すると、上流層のかかる風を迎え、その相手を勤める隠士
態度を取り、名声を得ようとする者もまた出てくるので
あった。(後略)

(引用ここまで)


と述べられているように、

こうした世の風潮が、少なからず、いや多分に、
淵明の思想・哲学に影響していた、

そのことを前提にして
考察していく必要があるでしょう。



おそらく淵明は、隠者の実生活そのものでなく、
隠者の、その“精神”に強く導かれるものがあり、

それを自ら“体現”していこうとするなかで、
その複雑な心情を、
“詩”(文学)を介して世に示したかったのでは
ないかと…

ひとつの推察として。






踏ん切りがつかぬまま
月日だけが無常に過ぎてゆく。


悶々とした日々。

揺れ続ける心。

矛盾した生活。



私の“居場所”は一体どこにあるのか  ・  ・  ・




儒学を色濃く学び、
老荘や仏教への理解もないわけではない、

それ故の苦悩・・・


かすかな望みを抱き何度も出仕してはみたが、
そのたびに私の心は打ち砕かれ、

味わったのは不条理失望だけだった ──




努力はしたが、
思う通りにはいかなかった、

私にはどうしても耐えられなかった、


権威に対しぺこぺこと頭を下げたり、
保身のために媚びへつらったり、

巧言令色してまで得たいものなど、私にはない。


私は
自分を曲げられない“不器用な人間”なのだ。




若い頃から世俗とはどうも調子が合わず、

もともと大自然の中で生まれ育った私は、
だれよりも丘や山、自然を愛しているが、


愛用の竹杖をどこかへ投げ棄ててしまった
あの日から、

誤って、
“塵にまみれた世俗の網”に落ちてしまい、
(官職の道にすすんでしまい)、


気づけば、自由”を失っていた・・・


“鳥かごの中の鳥”になっていた・・・




この複雑かつ窮屈な社会で生き抜くには、


私には、

古に想いを馳せ、
書物を開いては立派な先哲たちに私淑し、
その生き方に倣い、時に厳しく励まされ、

そして
心を旅しては、想いを巡らせ(詩作に耽り)、
煮詰まった思考を夜な夜な整理して、


そうやって

心を遠くに飛ばすしか“術”がなかったのだよ…





しかし、

これでまた“本来の自分”に戻ることができる。





動乱の世に生まれ、
政変の火の粉を浴び続ける淵明。


七、八歳の頃に父が亡くなり、
十二歳のときに庶母(妹の母)が亡くなり、

三十歳前後の頃に
長子を残して最初の妻が亡くなり、
(のちに後妻とのあいだに四人の子をもうけている)

三十七歳の冬に母が亡くなり、
そこから三年ほど喪に服し、


そして四十一歳、
今度は妹が亡くなった・・・



この時、
淵明の中でうごめく何かがいよいよ“爆発”

それから“決心”がつくのに時間は不要でした。


自分の肌に合わない環境で、
あくせく働くばかりが人生ではない”  …と、

役人の世界に見切りをつけ、
県令(その時の役職)を辞職。


(妹の死だけが辞職の理由とは思えません。
後述する『帰去来辞』の内容、雰囲気からも
それは伝わってきます。
この辺りの心境や状況、出来事については、
それ以上の言及がなくよくわかっていない)


淵明は

故郷へ帰ります ──





そのときの心境を詠ったのが、


帰去来
田園将蕪胡不帰

「帰りなんいざ、田園将(まさ)に蕪(あ)れんとす」
の名文句で始まる、

『帰去来(ききょらい)の辞です。



『飲酒』二十首と並び有名なこの詩ですが、
その冒頭部分を…


帰去来兮
田園将蕪 胡不帰
既自以心爲形役 奚惆悵而獨悲
悟已往之不諌 知来者之可追
実迷途其未遠 覺今是而昨非
舟遙遙以輕颺 風飄飄而吹衣
問征夫以前路 恨晨光之熹微


さあ帰ろう!
故郷の田園が荒れようとしているのに、
どうして帰らずにいられようか。

これまでは生活のために心を失くしてきたが、
ひとりくよくよと嘆き悲しんだところで、
どうなるものでもない。

過去を今さら悔やんでも仕方がない。
この先(未来)は自分次第でどうにでもなるのだ。

長い間、道に迷いはしたけれど、
まだそれほど遠くは離れていない。
これでよいのだ。これまでが間違っていたのだ。


舟はゆらゆらとして軽やかで、
風は飄々として私の衣を吹きつける。
(自身の解放された心地を表現)

(これから自分はどうしていったらよいのか)
行き先(故郷までの道のり)を船頭に尋ね、
夜が明けてきたおぼろげな朝の光を恨む。

(朝日よ、私をもっと照らしてくれよ!!
今この時をもっと盛り上げてくれよ!!)



意訳はご参考までに。


私が訳だけでなく原文を載せておく理由は、
原文こそが、
伝えられている作者の言葉そのものだからです。

口語訳、意訳は、読み手により解釈や言い回しに
ちがいが生じるもの。とくに漢文においては。


なので、
最終的にはご自身で原文と向き合っていただき、
“自分の答え”を見つけていただければと。


読むたびに“答え”が変化する(更新されていく)、
そんな詩です。



彼はこの『帰去来辞』をつくり、

廬山の麓にある家族が待つ田舎(故郷)へと、
(生き生きとした心地で)帰ってゆくのでした。




長旅を終え・・・


ようやくみすぼらしい我が家が見えてきた。
私が喜びながら小走りで向かうと、

門のところでは、
自分の帰りを喜んで出迎えてくれる使用人たち、
幼い子どもたちの姿が。


庭の三本の小道はすっかり荒れてしまったが、
松と菊はまだ元気に残っていてくれた。

さてと…

酒を酌みながら部屋で一息つくとしよう・・・



これからは自然と一体となり、
弱りきったこころを回復させ、

畑を耕しながら、
家族共々、貧しくとも平穏な日々を送ろう!
と心に決めた淵明。


長らく自身を縛り続けてきたものからの解放。



官界から足を洗い、

俗世間の煩わしさから逃れ、

塵外に身を置き悠々自適に、


やっと“自由”が始まります。



と同時に、

それは“新たな不自由”の始まりでもあり…



元はと言えば、

貧窮の暮らしから逃れるために仕官したが、
結局また貧窮の暮らしに戻ってしまった。

だがそれは、以前とはおもむきが異なる。


私はずっと田園に帰りたかった。

故郷こそ私の“居場所”だと、わかった。



“不自由さ知っての自由”



これは“新たな不自由”の始まりなどではなく、

私にとっては

“新たな自由”の始まりなのだ。




自ら望んだ田園生活。


とはいえ、

毎日のように
早朝から日暮まで外に出て汗を流すも、

慣れない畑仕事、

他の人のようには
なかなかうまくいきません・・・


子どもたちの空腹を満たしてやれない
父親としての不甲斐なさ。



家族みな、
飢えと寒ささえ凌げれば、

それでいいのに・・・


情けないことにそれすらも難しいとは・・・ 


夏と冬が憎い・・・




貧窮から脱却できない運命にある淵明。

しかしよくよく考えてみると、
“貧窮から脱却できない”、というよりも、

貧しい暮らしに不平不満を並べている時点で、
隠者になど到底なれるはずもなく、


やはり淵明は、

“隠者”にはなりきれない。



冒頭で既述したように、

淵明自身は常に、
“世俗との付き合い方”
“世俗から離れて暮らすというその態度”に、
趣を置いていることがわかります。



政変の火の粉は田園にまで降りかかってくる。

どうして
日常を穏やかに過ごすことができないのか…


しかしながら

どこで暮らしても、きっと、
私は世俗(貴族社会・官吏社会)との関係を
断ち切れそうにない。



でも、

距離を保つ(心を遠くにやる)ことはできる。



そうした再認識、再確認、再発見が、
ますます
淵明の“孤独”を肥大化させていきます。


その中においても、

彼は“楽しみ”を見つけ、
農作業による疲労に“喜び”さえ感じるのです。




ここで補足させてください。


故郷に帰ってからの淵明の詩には、
“貧しさ”を強調した表現が多くみられますが、

地位や暮らしぶりからして、淵明は、
けっして「極貧」の生活を送っていたわけでは
ありません。
“以前と比べて貧しくなった”というだけで。


それは、

“役人という仕事を自ら辞めて田園生活を送る”
という態度、

清貧の自負、


さらには
“客体化させた自分像”というものを常に意識し、

その上で、
消えることのない“孤独感”“心の隙間”
“貧しい”という言葉に換言しながら、

ひとつの事実に融合させていたのでしょう。



衣を脱ぎ田園で暮らしているその“距離感”こそ、
淵明は何よりの“誇り”であり、

もちろん、
詩中の内容はけっして“虚構”などではなく、
それは事実を際立たせるための“強調”であり、

言わば、世に対する彼なりの“自己アピール”。


詩全体としての“奥行き”

創作表現としての“くすぐり”を、

作り手である彼が
意識していないはずがありませんから。



そしてそこには、

前述したように、
当時の風潮(“描かれた生き方”)を体現する自負も
かなりあったと思われます。




貧しい暮らしをしているが、

私は貧士であり、

貧窮は、恥じることでも隠すことでもない。


むしろ私の誇りだよ。



私は“山中にひとり棲む隠者”とは言えないが、

この世にひとりくらい、
“家族と共に田園生活を送る隠者”がいても、
それはそれで斬新で面白いではないか。


まぁ… 人にどう思われようとも、
私は私の生き方を貫くのみ。

無理に理解してくれとは言わない。



一箪食、一瓢飲。
酒は薄くとも、あるだけで十分だし、

嬉しいときは近所の仲間と酒を酌み交わし、

酔えば心で琴を奏で、

雨が降れば酒と共に、古典に遊ぶ。


心はいつだって自由に旅できる。




それは乱世に揉まれながらも修養を積み重ね、
塵網で“不自由”を味わった淵明だからこその、
達観した心持とも言えるでしょうか。



人里で暮らしていた頃の私は、
毎日のように“孤独”を感じていたが、

それは見方を変えれば
“孤高”であったと言える。


世俗から距離を置き、それがよくわかった。

距離を置くほど冷静に、
より“社会の全体像”がはっきりみえた。



いまでも
孤独と鬱屈に付き纏われてはいるが、

それらを感じることは何もわるいことではない。


むしろ、人間としての健全な反応であり、
冷静に本心と向き合えている何よりの証だ。

孤独を感じるのは、当然のことではないか。



酒に酔い、
時に賑やかに過ごすことはあっても
乱れはしない。

乱れるために酔うことはしない。

私と酒の関係はそのようなものではない。


私は酒に酔っているわけではない。
自分に、自分のその心地に、酔っているのだ。



そしてその心地のなかで
独り静かに酌む酒ほど格別なものはなく、

すぐさま心情が反映する“この味”がわかるのは、

やはり
“真摯に孤独を感じている者”だけなのだ。




“人生は短く、術の道は長い。
機会は逃しやすく、試みは失敗することが多く、
判断は難しい” 

と、医学の父と称された紀元前のヒポクラテスが
言ったように、


大自然の呼吸の中において、

人の一生はあまりに短く、儚い。


儚いゆえに、

人は“永遠”というものに惹かれるのでしょう。




淵明は忘れませんでした、

不老不死を会得した仙人でないかぎり、
“人は(自分も)必ず死ぬときが来る”ことを。


絶え間なく変化し続ける自然の中で生きるとは
そういうことだ。

私は不服だが、受け入れるとしよう。



為転変。

“変化し続ける”という真理こそ、不変たるもの。


ならば、
先人に倣い、天保九如を祈り、

逆らえぬ天命に身を委ね、


流れるままに生きようぞ!!





伊藤直哉著『「笑い」としての陶淵明』
古(あたら)しいユーモア P.11

(前略)
ユーモアと「のんき」とは次元を異にするものである。
「のんき」とは、最初から悩みなんぞ感じない、お気楽・
能天気な性格のこと。少数者のみが有する、特別な精神
である。それに対してユーモアの方は、悩みを越えて
自由・達観の境地に飛びゆく知恵のことである。
だから、陶淵明の文学にユーモア精神が表れているのは、
彼が人生や社会の諸問題を見つめつつ、それを乗り越えて
行ったということに他ならない。(後略)

(引用ここまで)



真っ直ぐに死と向き合ってはじめて感じられる、

生きる喜び。命への執着。



“かたちあるものいつかなくなる”


これは自然界の摂理ではあるが、、、せめて、
今このひとときだけは、

老いなきこころを空想の世界に遊ばせ、


存分に

“積極的逃避”楽しもうではないか!!



歳月は人を待ってはくれないのだから!!






最後に、

淵明が四十五歳のときの重陽節を詠った
『己酉歳九月九日』と題された詩の
結びの二句を…


千載非所知
聊以永今朝


千年先のことなどわかるはずもないが、

(知ってどうする。それよりも私は今を、)


今日というこの日を、

とことん長く楽しむだけだ!!!!





苦悩を苦悩で終わらせない。


どこまでも本心にしたがい、

“あるがままの自分”の生き方を

さいごのさいごまで楽しんだ淵明なのでした。




自分でも理解しきれないこの心情を、
だれが理解してくれようか・・・


拙を守ることに勤しんだ(世渡り下手な)自分
ではあるが、
しかしこれだけは自信を持って言える、

言い訳にきこえるかもしれないが、




日常を楽しく過ごせれば

もうそれでいいじゃないかと






(終)




菊花石の欠片を
遠くに望む廬山に見立てて・・・





陶淵明

貴方がいついらっしゃってもいいように


今日はたっぷりのお酒を用意しておきました





辛丑 重陽
KANAME



参考文献 :
松枝茂夫・和田武司訳注『陶淵明全集』(上下巻  岩波書店 1990)
石川忠久『陶淵明とその時代』(研文出版 1994)
高橋徹『帰去来の思想』(国文社 2000)
和田武司『陶淵明 伝論』(朝日新聞社 2000)
伊藤直哉『「笑い」としての陶淵明』(五月書房 2001)
安藤信廣・大上正美・堀池信夫編『陶淵明 詩と酒と田園』(東方書店 2006)
宇野直人・江原正士『漢詩を読む 1』(平凡社 2010)


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