こんにちは( ´ー`) 

 

“雷鳴とどろく荒野” …ではないですが、

昨夜は激しい雷雨でした・・・


今日は打って変わりさっぱりとした空。

(今のところは…)

 

 


昨夜は遅い時間まで、少し散らかりかけた部屋で

映画観賞していました。

 

2016年に日本で公開された

『マクベス』を。


珈琲を飲みながら・・・

 

 

いつもはブラックを好みますが、

日中の読書疲れが出ていたのでしょうか…

珍しく砂糖を足して。


 

 

 

 


さて 

今日は「絵画」のお話をさせてください。

 

 

 

北宋時代の政治家であり、詩・書・画にも優れた

蘇東坡(そとうば)はこう言っています、

 

「画を論ずるに形似を以てするは、

 見児童と隣す」

 

“形をそのまま描くのは子どもと同じだよ”

 

…と。

 

 

これは、

画の稚拙や上等を言っているのではなく、

“精神の場所”を言っているのでしょう。


けっして形を描くなと言っているのではなく、

形を通して形を画く必要はないと。




墨竹画でも有名な蘇東坡ですが、

 

たとえば…

竹のような気分になりたいときは、

自分が竹となり、竹になりきって、竹を画く。


また竹を画いていると、

自分が竹になっていく・・・

 

 

 

実物そのものではなく、

“自分の心”がどうあるか。

 

目に見えている“それ自体”ではなく、

それの“本質”は何か。

 

 

“ウマイ”“ヘタ”の次元ではなくて。

 


 

 

 


洋画家の佐伯祐三(1898-1928)がフランス・パリへ

行き、

巨匠モーリス・ド・ヴラマンク(1876-1958)

指導を受けたときの話です。



ヴラマンクは二つの皿を佐伯の前に置いた。

“描き分けてごらん”


そこには

砂糖と塩が盛られていたという・・・




このエピソードは語り手によって微妙に言い回し

が異なっていたり、脚色が加えられていたりする

ため、

ここでは物語の要点だけを簡潔に紹介させて

いただきました。

 

また、ヴラマンクがどのような意図をもって

そう言ったのかについては、

画家や美術史家によって様々な解釈がなされて

います。



その真相は、

当然私にはわかりませんが…  ただもし、

自分が描く側として、その状況になったなら…

(見た目が全く同じであるという前提において)

 

先ずは、指につけ一舐し、

それぞれの味を確かめたいと思うはず。

どちらが砂糖でどちらが塩か、

自分自身が分かっていないのに、

描き分けられるはずもないからです。

 

 

しかし・・・

ヴラマンクからすれば、

本当はどっちがどっちとか、

そんなこと(目の前の事実)はどうでもいいのかも

しれませんね。

 


“砂糖と塩(の味)ぐらいはわかるだろ?

それをただ描き分ければいいだけさ”

 

と言っているようにも、私は感じます。




観察眼がよほど鋭ければ、粒のわずかな色味、

形状、質感の違いなど、視覚的にその差を捉え

見事に描き分けられる人も世の中にはいるかも

しれませんが。

 

或いは、それくらいの目を持てということ

(腕や能力の話)なのでしょうか…



実際に砂糖と塩を顕微鏡で覗いてみると、

砂糖は一粒一粒の形が不揃いですが、

塩は一粒一粒が四角い形状で大きさもほぼ均一。

まさしく自然の結晶だとわかります。


砂糖と塩。

まったく同じように見えるけど、

まったく性質のちがうもの。

似て非なるもの。

 

基本的な味覚で言えば、

砂糖は甘いし、塩は辛い。

それは舐めてみなければわからない…

目には見えぬ性質のちがい。




もしかすると…

 

これはテクニカルや能力の話ではなくて、

実は、そういった感覚からくる感情のほうが

大事であって、その感情を筆に乗せて描けという

ことなのでしょうか。


そのためには、それそのものを知り、理解し、

本質を掴むことで、

ようやく、表現の矢が放たれると。

 

 


本質を掴んでいてこそ、

より抽象的に、より本能的に、より端的に、

より直接的に、より内面的に、より普遍的に、

思うままに、感じるままに、

カタチを崩していける。

ということなのでしょうか。


より“真実”に近づけると・・・







自分自身のこと・・・
 
 
 
自分だれか
 


自分のこともわからないのに、
他人のことなんてわかるわけない。
 
でも、他人がいなければ、
自分を認識することはできない。
 
 


外を知ることで
内を知ることができる。
 
内を知ることで
外を知ることができる。
 


甘さ知っての辛さ。
辛さ知っての甘さ。
 
 
 
会ってみて・・・
話してみて・・・
 
食べてみて・・・
噛みしめてみて・・・
 


わかるもの。


みえるもの。
 
 



心の状態によって
見え方は変わってくる。
 
心の状態によって
受け止め方は変わってくる。
 


  

映画の感想も、

 

珈琲の味も、

 

その時々の自分の心(の状態)によって

感じ方は変わってくる。

 

 


 
中心はいつもぼんやりとしていて、


曖昧。
 


曖昧だから


中心なんだ・・・
 

 


 
目に見えているものが真実とは
かぎらない。
 


けっして描き切ることのできない

“自分の心の中心”に、

どこまでも忠実でありたいな・・・
 




ここまでお読みいただき

ありがとうございました(/▽\)



平安如意

 



2021.05.02

KANAME

 

 

 

【関連記事】

 

2021年3月2日 投稿

 

2021年1月9日 投稿

 

2021年1月2日 投稿