完訳:日本奥地紀行 1 イサベラ・バード、金坂清則 訳注
2012年3月21日 平凡社刊より、転載・引用
2012年3月21日 平凡社刊より、転載・引用
日本奥地紀行:イサベラ・バード NO.35
英国人の女性旅行家が、1878年(明治11年)6月から9月にかけて、通訳兼従者として雇った伊藤鶴吉(18)を供とし、東京を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅した。
イサベラ・バードの「日本奥地紀行」を記載します。
イサベラ・バードは、埼玉の粕壁(春日部)から栃木の今市、そして日光へ行き、会津から新潟に着きました。
日本奥地紀行を再開します。
「伝道」と第十九報「仏教」の記述がありますが、キリスト教と仏教との違いを述べていますが、少々理屈っぽく、哲学の話になるのでスルーします。
■第二十報 新潟
1878年 7月9日(火曜日) 新潟にて
■最悪の天気
私は、一週間以上新潟で過ごしてきたが、残念ながら明日ここを発つ。
残念なのは新潟自体の面白さよりも友人「との別れ」のためである。
これほどひどい天気が続く一週間は初めてだった。
太陽はほんの一度顔を出したきりで「50キロ」先の山々はまったく見えなかった。
茶色がかった灰色の雲が垂れ込め、空気はよどんで湿っぽく、「摂氏27・8度」だった昼の気温は、夜でも「26・7度」あった。
この家「ファイソソ家」の人も身体のだるさと食欲不振でぐったりしている。
夕方になっても涼しくならない上に、無数の虫が飛んだり、這ったり 跳ねたり、走ったりする。
どの虫も害虫である。
夜にはまだら模様の長い脚をもつ昼間の蚊とは別の蚊がブーンという音もたてずにやってきては肌をかんだり毒針で刺したりする。
この蚊は大群をなす。
散歩しようにも「歩けるところは町通りと公園にしかない。
新潟は砂州の上に造られた町で、暑いうえに木々もない。
町の景色は木造の見晴らし台「舟見台」のてっぺんに上らないことには一望にできない。
町の景色は木造の見晴らし台「舟見台」のてっぺんに上らないことには一望にできない。
新潟は外国貿易のない開港場であり、外国人もほとんど住んでいない。
去年も今年も外国船は一隻も入ってきておらず、外国の商館は二つしかない。
いずれもドイツのものである。
外国人はわずか十八人で、宣教師を除くとほとんどが政府「新潟県」に雇用されてしる。
信濃川と呼ばれる川は日本最長の川で、その本支流を流れ下る水量は膨大である。
ただ日本の川は、山地から流れ出る膨大な量の土砂や小石で流れをひどく阻害されている。
私がこれまで目にしてきた川はどの川も、両岸が硬い岩で画されている部分を別として、河床には砂礫や丸石が堆積し、川の水は砂が堤防のようになったり中州をなしたりしてしる間を縫うように曲がりくねって流れていく。
ひどい場合とそれほどでない場合があるとはいえ、毎年発生する氾濫時には膨大な量の水が荒野のような河原を覆って、土砂や岩層を河口へと押し流す。
このため河口はいくつもの州でふさがってしまう。
信濃川は日本第一の大河なので最も厄介であり、入口「港口」に一つの中州が横たわり、わずかに一本の水路「水道」がそこを抜けているが 水深が「2メートル」のその水路もどんどん浅くなってきている。
技師たちは信濃川にたいへん頭を悩ましてきており、政府も何とかして水路を深くし港湾のない本州西岸「日本海側」にこれを設けることを熱望している。
しかし必要な事業のためには膨大な費用がいる。
それが終わるまでは、和船と港湾の外に停泊する日本の少数の小型汽船による海上交易が細々と行われることになる。
英国の副領事職が置かれているが、昇進のためでもない限りは このような退屈な職場や辺地の居留地などだれも引き受けまい。
*私は旅客設備のないこのような汽船で自分の「行李」の一つを函館まで送ろうとした。
その時、送るには送ったものの、煩わしい制約に直面し、外国人である私は困り果てた。
外国人が自分個人の荷物をある「開港場」から別の開港場にさまざまの形式ばった手続きなど踏まないで送れるようになっているのが当然のことであろうに、その手続きのためにすんでのところで送れなしところだった。
伊藤が私の荷物を伊藤の名前で函館に住むほとんど見ず知らずの日本人に送るように按配してくれたお陰でようやく送れたのである。
私見:これは昔、列車で自分の荷物を送るとき、「チッキ」という切符とともに「手荷物」を送ったが、その始祖のようなものだろうか。
■新潟のヨーロッパ風の市街
しかし新潟は五万人の人口を擁す美しく繁華な都市である。
また、150万人の人口を擁す富裕な越後国の主都であり、(県令)と言われる県知事がいるところでもある。
複数の主要な裁判所や立派な学校、一つの病院そして兵営もある。
このような隔絶された町で専門学校と称するに足る学校を見ることができるのは不思議な気がする。
この学校「新潟学校」には、中学科、小学科、師範学科に加えて、英国人と米国人が組織し 50人の生徒のいる英語学科や百工化学科が付設されている。
百工化学科には鉱物地質学標本室や複数の実験室がある。
その設備はすばらしく、最新で最も定評のある科学・教育機器が備えられている。
フアイソン氏の家の近くには県庁の建物が集まっている。
すべて木造で白いペソキが塗られている。
そして建物が大きく、数えきれないガラス窓が付いているので人目につく。
一人のヨーロッパ人の医師の計画に沿ってできた医学校が付属する大きな病院や、(県庁)、(裁判庁)と言われる裁判所、複数の学校、兵営、そしてほかのどれにもひけをとらない銀行の大きな建物はすべてヨーロッパ風であり、進取的で存在感はあるが ごてごてしてして趣に欠ける。
たいへんうまく設計され、砂利をきれいに敷いた遊歩道のある大きな公園もある。
街灯は300基を数え、当地方で産する石油が使われている。
*この病院は大きくて換気もよいが 多くの入院患者がやってくるまでにはなっていない。
外来患者は非常に多く、眼病が目立つ。
日本人の主任医師はこの病気がこの近隣で蔓延しているのは、じめじめしていること、「砂丘の」砂や雪で陽の光が反射することと「家の」換気が不十分で炭火の煙霧がひどいことに起因するとみている。
ただ、日本で最も豊かな国「新潟県」の主都「新潟」は、奔放な信濃川が天然の交通路である海と「州のせいで」常につながらない形になっているために「孤立して」いる。
そのため、膨大な量の米、絹、茶、麻、(人参)、藍のみならず、金、鋼、石炭、原油を産出する越後国の物産のほとんどは、馬の背に乗せしくつもの山脈を越えて江戸「東京」へと輸送されねばならない。
その道は私がたどってきた道と似たりよったりのひどい道である「という」。
■絵のように美しい町通り
西欧化という形で展開し始めている新潟の官公庁地区は、純日本的な旧市街と比べるとまったく見劣りする。
旧市街はこれまで見てきた町の中では最も整然とし、最も清潔で見た目にも最高に心地よい。
「横浜の」外国人居留地のような雑踏もない。
ここは訪問者を遠方から惹き付けるいくつもの美しい茶屋とこれまた複数ある劇場がすぼらしいことでよく知られ 広い地域の娯楽の中心になっている。
みごとなまでに清潔なので、この掃き清められた町通りを泥靴で歩くのは、日光でもそうだったが気がひけるほどである。
エディンバラの当局にとってよい教訓になるだろう。
藁や小枝の一本、紙切れ 杖でも落ちていればすぐに拾って片付けられるし、ごみは蓋付きの箱や桶に入っている場合は別として、一瞬とて路上にほうってはおかれない。
ここはそれぞれ「1・6キロ」以上ある五つの町通りと、これらに交わるたいへん多くの短い通り「小路」によって矩形に整然と画されている。
また堀が縦横に走り、実質的な道をなしている。
町通りでは駄馬は、一度も見かけなかった。
すべては小舟で運ばれてくるのである。
堀を通じて物資を戸口のそばまで運び込めないような家は、この旧市街の中心部にはほとんどない。
これらの水路は終日往来が多いが とりわけ野菜を積んだ小舟がやってくる早朝の混雑ぶりほ言葉に尽くせない。
この地の人々は野菜なしでは、い日とて過ごせない。
ちょうど今は胡瓜を積んだ小舟がなかなかの見ものである。
堀は、一般には町通りの真ん中を流れ、その両側がまずまずの幅のある道になっ
ている。
ている。
そして、堀は道路面よりもずいぶん低いところを流れ、垂直に近いその岸は、所々にある階段の部分を除くと板と杭できっちりと覆われている。

堀端にはずっと木が植えられている。
枝垂れ柳が多い。
その上、堀には川「信濃川」からの水が流れているのでとても気持ちがよい。
また、小橋が短い間隔で架けられている。
堀は新潟のたいへん魅力のある特色になっている。
家の屋根は板葺きで勾配がきつく、石で重しがしてある。
家の屋根は板葺きで勾配がきつく、石で重しがしてある。
また高さは実に不揃いだが、どの家も屋根の勾配のきつい切妻で二階の妻の部分を通りに向けている。
この街の絵のような美しさは日本では非常に珍しいものである。
町通りに沿って庇の探い通路「雁木」がずっと続いているのである。
そして冬に雪が深く積もると、これは屋根で守られた歩道になる。
両側が並木道になった堀や立派な公園、清潔で絵のように美しい町通りがあるのも、街を実に魅力的にしている。
しかし街が改善されたのは最近であり、現東京府知事楠本正隆氏によってこれが完成をみたのはつい先年のことである。
貧しい様子が街のどこにも見られないのは事実だが、逆に金持ちがいても、金持ちであることが周到にわからないようにされている。
この都市「新潟」の外観でよく目立つのは、木の(格子)のはまった出窓のある民家の並ぶ町通りが数多くあることである。
格子越しだと、住んでいる人は外から見られることなく家の中からだけ外を見ることができる。
ただ夜になって(行灯)が点ると、家族がたいていは裸同然の(いつもの身なり)で(火鉢)の回りに坐っているのが見える。
このことはパーム医師の家を出て歩いていた時に私たちも経験した。
家は、間口は非常に狭いが、奥に向かって驚くほど長く続き、途中には庭「中庭」が複数あり、庭にはいろんな花や低木「植木」が茂っていて、蚊も多い。橋も何度も現れる。
それで 通りから家の中を覗くと、おとぎの国を眺めているような気分になる。
日本家屋は重要な部屋が奥の方にあり、模型のような景色「中庭」に面している。
「2・8平方メートル」もないような狭い空間に景色がみごとな技で小さく再現されてしるのである。
池・石組み・橋・石灯寵と、姿を人工的に歪めた松は不可欠な要素としてあるし、資金を含め事情が許す限り趣のある技法が尽くされる。
茶を点てたり読書をしたり静かで涼しい中で寝たりひそかに釣り糸を垂れたり(酒)を飲んだりする離れである小さな四阿(あずまや)が設えられる。
青銅の五重塔や青銅の龍の口から水の流れ落ちる滝も一つならずある。
岩をあしらった池の深みでは、金色や銀色の魚「錦鯉」がすばやい動きで水面の上に身を躍らせたり 水面下に潜ったりしている。
池には岩でできた中島があり、せせらぎには緑色をした橋がかかっている。
鼠や蛙がその下をくぐれる程度の高さの橋である。
芝地や、雨が降った時に通るための踏み石や、小さな洞穴や山・谷が配され、所々に小ぶりの踪欄(しゅろ)や蘇鉄・竹がこんもりと生えている。
また、葉が紫だったり鈍い緑をした、成長を抑えられた「盆栽仕立ての」種々木々は、四足獣や爬虫類そっくりの姿に整枝され、そのねじれた枝を池の上に長々と伸ばしている。
■お姫さま
私はこれまで新潟「の街」を実によく歩き回ってきた。
今のところはたった一人のヨーロッパ人女性であるファイソン夫人と三歳になるかわしいイングランド人の子供ルースと連れ立って歩いていると、後から大変な数の群衆がついてきた。
カールした金髪が肩まで垂れたこの色白の美少女がこの上ない魅力をたたえていたからである。
群衆は男も女も幼児に対して礼儀正しく優しいので、ルースも群衆を怖がるどころかほは笑み、日本式のお辞儀をし、日本語で話しかける。
自分の国の人から離れたがる様子さえ少しある。
だから彼女を私たちのもとを離れないようにさせるのほとても難しい。
気づくといなくなっており、振り返ると数百人の群衆の輪の中にあって日本式に座っており、称賛の的になっているということが二、三度あった。
そんな時、彼女はその状況から引き離されるのをとても嫌がった。
日本人は本当に子供好きではあるが、ヨーロッパ人の子供があまり日本人と一緒にいるのは好ましいことではない。
日本人は「ヨーロッパ人の子供の」道徳を台無しにするし、嘘をつくことを教えたり
するためである。
するためである。
新潟およびこの広大な国「越後国」の大部分の気候は、山岳地域の向こう側「太平洋側」の気候とは実に対照的であり快適ではない。
後者の気候は北太平洋の湾流(黒潮)の影響を受けて温暖であり、秋と冬は大気の状態が安定し、気温もあまり低くなくさわやかで真っ青の晴天が続くので、一年で最も快適であるのに対して、新潟では雪の降る日が年平均32日ある。
堀や川は凍結し、流れの速い信濃川でさえ馬が渡れることがある。
一、二月には「0.9~1・2メートル」の積雪があり、空には厚い雲が垂れ込めどんよりしている。
人々は少しでも陽の光がほしくて二階で暮らす。
駄馬輸送は姿を消し人々は藁がもじゃもじゃ出た雪靴をはいて歩きにくそうにして歩く。
また冷たく強い北西の風「季節風」がよく吹くために、沿岸は半年近くの間航行が困難になる。
この都市の人々は「外では」綿入れを着、顔は眼以外を覆って雁木の下をよろよろと歩く。
家では」(火鉢)の回りに集まり震えている。
夏に摂氏「33・3度」にもなる気温は冬には、「マイナス9・4度」も低下するのである。
これらすべては北緯37度五55分のこと、つまりナポリより3度も南でのことなのである!