歓喜 | 副住職&若坊守の奮闘日記【第二章】〜住職&坊守編〜

副住職&若坊守の奮闘日記【第二章】〜住職&坊守編〜

浄土真宗本願寺派のお寺の副住職&若坊守がお寺の日常をつづって参りましたが、一昨年より急遽、住職&坊守の立場となりました。
より奮闘する日々を、気ままにつづって参ります。

連日に渡り、酷暑続きだった気候も、


先日の台風から一変。


今年のお盆期間は、大雨が心配されるとの予報です。


各地で大きな災害が起こらないことを、只々願うばかりです。


明日、明後日とお盆の法要が勤まります。


コロナ禍に加えて大雨の心配もあります。


どうかご無理はなさいませぬ様、ご案内申しあげます。


〜浄福寺盂蘭盆会〜


■日時 8月13日(金)夜席 19時〜20時


■会所 浄福寺本堂にて



〜正玄寺盂蘭盆会〜


■日時 8月14日(土)朝席 9時〜11時


■会所 正玄寺本堂にて





昨日お参りしたお宅に、



「恩徳讃(おんどくさん)」のご文が。


如来大悲の恩徳は
身を粉(こ)にしても報ずべし
師主知識(ししゅちしき)の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし 

         『正像末和讃』


親鸞聖人85歳の時に詠まれたものと言われます。



私たちは日々、それぞれの境遇、境涯で人生を懸命に生きています。


どんな人であっても、


誰一人として手を抜いた人生を歩んではおられないと思います。


不思議なもので、

順風満帆な日々を過ごしている時は、笑顔が絶えず、言動も穏やかに過ごせます。


しかしながら、自分にとって不都合なことや思いがけない出来事が起こった時、瞬時に悩み、同時に不安や悲しみを抱えます。

場合によっては、腹を立てたり、人のことを羨んでみたりもします。


なんで私が…。

なんで自分の大切な人がこんな目に…。


なんで…なんで…なんで…



そして、ふと疑問が浮かびます。


何のために生まれて、

どこに向かったいのちなのだろうか。


いくら考えても、自分で解決することは難しい問題です。


これを仏教では、


“無明”(むみょう)


と教えていただきます。


答えを求めても明らかにならない、まさに闇。



そんな私に、


いかなるものも邪魔にされない!

妨(さまた)げともされない!

分け隔てもされない!

仏様のはたらきが、


無明の私に届いていますよ!!


と、お伝えくださった方が、


お釈迦様であり、


法然聖人であり、


親鸞聖人です。



私や、皆さんが声に出した


「南無阿弥陀仏」


のお名前(言葉)にすべての徳を施して、


無明の闇を生きる私の、



今ここに。



あなたの身の上に起こることの全てに意味があります。

私があなたのそのままを共に歩んでいます。

あなたのいのち、死ぬのではありません。私のさとりの世界(浄土)へ仏として往き生まれてくるいのちです。

どうか早く、生きる意味といのちの行く末に気づいて欲しい。

お願いだから、

私の名前を称えて欲しい。

そのいのちの全てを、私にまかせて欲しい。

既に抱き、導いているから。

そのまま、そのままを。


と。



親鸞聖人は、阿弥陀様(南無阿弥陀仏)のお慈悲のお心と、そのお心をお伝えくださった時代や国を超えた祖師方へのご恩を、和讃の一首に詠まれました。(これが「恩徳讃」です)


それは、どんなに返しても返しきれないご恩との味わい。


だからこそ親鸞聖人は、阿弥陀様の救いに出遇った自らのよろこびを、後を生きる人たちへ和讃など様々な著作を通してお伝えくださいました。


一人でも多くの方に安心を届けるために。




浄土真宗のお盆は、


先立たれた大切な方を仏縁として、


無明の今を生きる自身の境遇を通して、


阿弥陀様のお慈悲のお心に出遇い、そのお心をよろこぶ身に(歓喜)育てられていく機縁です。








なんまんだぶつ、、、   (副住職)