さてさて、コンヤ旅行記①の冒頭にも書いたように、
私がコンヤで出会いたかったのはルーム・セルジューク朝の首都であった歴史とその遺産✨でございました。
(世界史が苦手な方のために👉ルーム・セルジューク朝は、11世紀に中央アジアで興った大セルジューク帝国が分裂してできたアナトリアが領地の国。トルコではアナドル・セルジューク朝と言います)
コンヤに到着したとたん、街の市章がセルジュークの双頭の鷲の紋章で、キャッコイイ〜と喜ぶ私。
最後の青いものが大セルジューク朝の紋章
街のあちこちに「セルジュークの首都コンヤ」という垂れ幕が下げられたり、セルジュークをイメージしたモニュメントがあったり。
セルジュークなアイテムで固めた、知る人ならわかるモニュメント。
毎年6月26日は、コンヤがルーム・セルジューク朝の首都になった記念日としてお祝いしているらしい!
このフォルムが柔らかい双頭の鷲はルーム・セルジューク朝の紋章
…という感じで、600年以上つづいたオスマン帝国の以前に存在したセルジューク朝が、いまも身近な存在として息づいている感じが嬉しい。(お前セルジュークのなんやねん、て感じですが)
というわけでコンヤのセルジューク史跡をめぐります♫
まずは以前にも来た記憶のある、インジェ・ミナーレリ神学校İnce Minareli Medrese。
1265年あるいはそれ以前に、セルジューク朝の大臣サーヒブ・アタによって、モスクとマドラサ(神学校)として建てられたもの。
装飾門(taçkapı)が素晴らしすぎる!!
帯状にぐるりと透し彫りされているのは、クルアーンのアル・フェトフ(勝利)章とヤー・スィーン章
インジェ・ミナーレリとは「細いミナレットを持った」という意味ですが、もともとすごく長かったのが、20世紀初頭の落雷⚡️で折れてしまったそう。
同時にモスク部分のドームも破損し、モスクは無くなりミナレットだけが残っています。
昔の写真を見ると、ミナレットの後ろにモスクのドームが見えます
内部は、イランや中央アジアでよく見る、青い釉薬をかけたレンガを並べたドーム。
レンガの模様は、キリムの文様を表しているのだとか。
そのドーム下は今、石・木工芸品博物館(Taş ve Ahşap Eserleri Müzesi)となっていて、セルジューク時代の宮殿や屋敷などから発掘された、墓石や扉、宮殿や城壁の一部などが展示されてました。
こんな天使像なんてオスマン朝じゃ絶対に見ない。コンヤの城壁の門に飾られていた天使は服装に突厥やウイグル族の影響があるらしい。
次に向かったのは、さきほどの↑神学校を建てたのと同じ、サーヒブ・アタが建てさせた、サーヒブ・アタ・モスクSahib Ata Camii。
私も初めて訪問しました。
ここも門が素晴らしい!そしてセルジューク感たっぷり👏
サーヒブ・アタ、いいもの残してくれますよねー!いや、両方の建築を担当したKölük bin Abdullahさんがイイ仕事してるのか。
ミナレットはタイルと彫りのあるレンガで、色鮮やかな変わったデザイン。
もともと門の左右に1本ずつあったらしいのが、左側のは年代不明の大昔に倒れたそう。
シェレフェ(バルコニー)の上は後世に修復したもの
門そのものも、セルジュークの真骨頂な透し彫りがとても美しくて、何時間でも見ていられそう…
この門のすごく面白い特徴は、門の左右にある丸い穴。
ここ、セビル(飲み物を無料で提供する慈善施設)が併設の門なのですが、この丸い穴から木製の吸い口を差し込むと、片方の穴からは牛乳、もう一方からは蜂蜜を飲むことができたんだとか‼️
穴をのぞいてみたら、下に向かって細い穴が続くようで、その下は牛乳などを入れておくタンクだったそうな。
そのタンク部分にメデューサらしき彫刻があるから、ん⁉️と思ったら、これはトルコあるある、ギリシャ・ローマ時代あたりの古い遺跡を建材として再利用したものでした。
このメデューサがついているのは棺。古い棺はトルコでは水槽的によく使われてます笑
門の奥のモスクは、もとの建物が19世紀に火事で失われ、新たに建てられたのはまるで味気のない平屋なんですが、焼失せずに残った👏13世紀のタイル製ミフラーブは一見の価値あり。
暖色を出せなかった時代の青いタイルに惹かれるこの頃。
モスクの裏手には、サーヒブ・アタとその息子たちの霊廟があり、門の透し彫りももちろんのこと、内部は青いタイルに覆われていて
ブルサのイェシル・トゥルベのような感じで、宝石のように美しい霊廟でした。
子供たちに「モスクばっかり入って、靴を脱いだり履いたりもうイヤだよ」とブーブー言われながらも、目がハートの母は止まらない
コンヤのセルジューク遺跡めぐり、次号に続きますよーー🏃
靴を脱ぐ代わりに履かされたシューズカバーを、猫のぬいぐるみの足にも履かす息子