◆井上寿一『 戦争調査会 』を読み解く
★要旨
・敗戦後、幣原喜重郎内閣が立ち上げた国家プロジェクト、
それが「戦争調査会」。
・日本人自らの手で開戦、敗戦の原因を明らかにしようとしたものの、
GHQによって1年弱で廃止された、
知られざるプロジェクトは、いったいどのようにして始まったのか。
・1945年10月になると幣原は、「終戦善後策」を携えて、吉田茂外相を訪ねる。
この意見書を手渡して、幣原は吉田に考慮を求めた。
吉田は幣原を首相にする心積もりだった。
・後日マッカーサーの内諾を取りつけた吉田は、幣原に首相就任を要請した。
10月9日、幣原内閣が成立する。
・11月20日、幣原内閣は「大東亜戦争調査会官制」を閣議決定する。
「敗戦の原因及実相」を調査する政府部局が設置される。
この調査会は総裁・副総裁各1名、委員25名未満をもって組織し、
臨時委員を置くことができるようになっていた。
・総裁のポストと同等以上に重要だったのは、事務方のトップに当たる長官のポストである。
次田大三郎内閣書記官長は庶民金庫理事長の青木得三に依頼する。
・1909年に東京帝国大学を卒業して大蔵省に入省した青木は、
エリートコースを歩む。
課長クラスの時から論壇誌の『改造』に寄稿して、注目されていた。
・青木は戦争調査会で辣腕を振るう。
総裁候補者のところへ足を運び、説得する。
諸会議へもっとも熱心に出席する。
会議の議事進行を滞りなくおこなう。調査項目を指示する。
とびきり優秀な国家官僚の出身者ならではの行政手腕だった。
・事務局内の5つの調査室には常勤職員の調査官と嘱託が配置されて、
内閣事務官とともに調査に当たることになった。
調査の出張先は北海道から九州まで全国津々浦々である。
・別の内閣事務官は5月9日から11日間、
福岡と熊本に出張し、両県に所在する沖縄県事務所を訪れている。
沖縄県からの引揚者に対して、戦時中の沖縄の情況を聴取することが目的だった。
・新潟県に赴いたある内閣事務官は、国内油田開発に関する資料収集をおこなった。
戦争末期、南方からの航空機用燃料の輸送が困難に陥った。国内油田の開発が急務となる。
それにもかかわらず生産実績は進捗しなかった。
原因を探究する資料が必要だった。
・2月に長野県に出張したある調査官は、
「飯田町を中心とする下伊那郡に於ける中小工業に関し戦時中の運営状況並に之に対する統制実施状況調査」をおこなった。
調査官は調査の結果を翌3月の報告書にまとめた。
この調査報告は戦時下の中小工業の実情に関する第一級の分析を展開している。
・事務局の書類ファイルで確認できるだけでものべ40人が出張している。
戦争調査会はこのように大がかりな調査が下支えする各部会によって構成されていた。
・総会の議論を主導したのは幣原である。
幣原は冒頭、3つの基本方針を打ち出す。
第一に戦争調査会は「永続的性質」を帯びている。
第二に戦争犯罪者の調査は「別に司法機関とか或は行政機関」が担当すべきである。
第三に歴史の教訓を後世に遺し、
戦後日本は「平和的なる、幸福なる文化の高い新日本の建設」に邁進すべきである。
★コメント
やはり、戦後多くの検証、分析が行われたようだ。