◆宮下遼『オスマン帝国全史』を読み解く




★要旨


・およそ600年ものあいだ「世界史の中心」に君臨していたオスマン帝国。
多民族・多宗教の大帝国は、いかに栄え、そして滅びたのでしょうか。


・オスマン帝国とその世界に分け入ろうとするとき、踏まえるべき前提が3つある。
それは、その広大さ、地域多様性の保持、そして類稀な長命の3点である。


・13世紀末、
オスマンという名の1人の戦士がアナトリア半島の西北部に喊声を響かせて以来、
トルコ系のイスラーム教徒であったこのオスマンとその一族を主家と仰いだ。


・オスマン家に仕える文武の公僕たちによって統治され、
その支配が臣民たちによっても感得された広大な地域、
それがオスマン世界である。


・しかし、オスマン帝国の統治者たちは強力な軍事力によって征服したその土地から、
ただ財と人とを収奪するのではなく、
むしろ末永く支配すべく優秀かつ信頼のおける人材の獲得と
その養成という不断の努力を重ねた。


・さまざまな民族的出自を有し、
しかし一様に王朝に仕官する人々を繋ぐためのある1つの言語が形成された。
それはオスマン語と呼ばれる。


・オスマン語は、
トルコ語を基調としながらもアラビア語、ペルシア語などの語彙と文法が
ふんだんに取り込まれた高踏かつ難解な行政・芸術のための文語として発達した
このリングァ・フランカ(母語が異なる者たちの共通言語)こそが、
オスマン帝国の王朝正史を綴った。


・この国の統治者たちは治安が保たれ、
滞りなく納税が行われているのであれば、臣民たちの日常生活や信仰には立ち入ろうとしなかった。
その点で、オスマン帝国の支配は放任的であり、
寛容とも評され得る質を備えていた。


・こうした広大かつ多様でありながらも
緩やかなまとまりを有する1つの地域世界が成立し得たのは、
ひとえに帝国が623年に及ぶ長命を誇ったからにほかならない。


・国家の長命はやがて、人々の意識さえも変えていった。


・帝国が最後の半世紀を迎えようというころ、
もとはオスマンという一人物、一王家の名称に過ぎず、部族名でもなければ、
地域名でもなく、ましてや民族名でもなかったはずの固有名詞が
「オスマン人」という新たなナショナリティを生み出そうとする努力へ結びついていくのだ。


★コメント
永く続く国家やファミリーには、理由がある。
ひたすら研究して、自分の国家や家族に、応用したい。