◆渡邉恒雄『私の履歴書:君命も受けざる所あり』を読む
※要旨
・大野伴睦さんは明治生まれの人らしく、
来客が帰るときには玄関まで見送りに出て、
自ら靴の向きを直すような律儀さがあった。
・あるときから大野さんに代わって
私が靴の向きを直すようになった。
取り入ろうとしたわけではない。
大野さんの立ち振る舞いを見ているうちに、
それが自然に思えてきたからだった。
・大野さんは私に何でも話してくれるようになっていた。
私も聞いた話を記事にするタイミングを心得てきていたから、
安心して政治の舞台裏まで語ってくれる。
・大野さんは無骨だが人情に厚かった。
一言で表現するなら親分肌。
派閥に属する議員の金の面倒はもちろん、
閣僚や党の役員人事でもきちんと処遇した。
議席を失って苦労をしている人が金の無心に来れば、
黙って渡していた。
・オフレコと言われたものは、
その約束を守り、信頼関係をつくる。
新聞記者は一時の功名のために
過去の蓄積を犠牲にしていては、
本物の記事を書くことはできないものだ。
いまは書けなくとも、
書けない情報を整理していけば
見えなかった本質が見えてくるし、
そうして書いた記事は正確で深いものになる。
・わたしが初めての著作『派閥。保守党の解剖』を
出版したのは昭和33年のことだった。
書く材料のほとんどのことは頭の中にあった。
若いころの私は比較的記憶力がよく、
200件ほどの電話番号のほか、
政治家の車のナンバーも5、60台は諳んじていた。
→日ごろの取材内容をメモした手帳とスクラップだけを
手元に置いて記者クラブの狭い筆記スペースに向かい、
400字詰め原稿用紙で350枚を10日ほどで書き上げた。
あのころは書くことが面白くて仕方がなかった。
・大野伴睦さんから得た知遇も、
政治記者としての情報源拡大の根本であって、
それがなかったら私は20年以上前に定年退職していただろう。
・務台光雄さんの存在がなかったら、
私の後半生はまったく違ったものとなっており、
世界最大の新聞のトップには到底なっていなかった。
※コメント
渡邉さんの波乱万丈の人生に、
耳を傾ける価値はある。
いろいろな面白いエピソードが満載であり、
学ぶ点がある。