◆手嶋龍一『1991年・日本の敗北』を読み解く


★要旨


・湾岸戦争後、アメリカ側の手の内が明らかにあるのだが、
ブッシュ大統領(シニア)は1990年12月下旬、
信頼するチェイニー国防長官とパウエル統合参謀本部議長を湾岸に派遣し、
シュワルツコフ司令官との間でイラク開戦への周到な準備にあたらせていた。
帰国した2人は、クリスマスイブの12月24日、
キャンプデービット山荘にブッシュを訪ね、現地の模様を詳しく報告した。


・シリアに小野寺あり。
「東京経由のインテリジェンスに意外な拾い物がある」
この頃、ワシントンの情報関係者の間でこんな話が囁かれていた。
湾岸情報を一方的に享受するばかりだった日本。
しかし、その東京情報には時折目を瞠るような上質なものが含まれているというのである。


・「東京経由のインテリジェンスの拾い物」は、
日米間の情報インバランスの改善に無視できない役割を果たした。
イラクのフセイン政権の中枢に諜報ネットワークを張り巡らし、
日本へ貴重な情報をもたらしていたのは、BND・ドイツ連邦情報局だった。
バイエルンの美しい古都ミュンヘン郊外プルラッハに本部を持つBNDは、
旧ドイツ陸軍の対ソ秘密情報機関として知られる「東方外国軍課」にその淵源を有する。


・ソ連や東ヨーロッパに諜報網を作り上げたのは「顔のない男」と呼ばれた、
ラインハルト・ゲーレンだった。
ゲーレンは回顧録のなかで、
「アラブ諸国の伝統的な親ドイツ傾向は、
西ドイツの国家戦略を再構築するうえで計り知れない価値があった」
と告白している。


・BNDは、エジプト、イスラエル、イラン、イラクなど、
中東の戦略拠点に諜報エージェントを巧みに配していたのである。
日本は、意外な街でこの強力な情報機関と密やかなコンタクトを保ち続けていた。
アラブ強硬派シリアの首都ダマスカスがそれである。


・当時、シリアには外務省ドイツ・スクールに属し、
「衝立の向こうでドイツ語を話していれば日本人と思う者はいない」
といわれた小野寺龍二が日本大使として在勤していた。
彼は情報調査局の審議官や防衛庁の国際担当参事官を歴任するなど、
インテリジェンス畑を歩んだ数少ない外交官だった。


・小野寺は幼少時をラトビアそしてスウェーデンで送り、
かの地で第二次世界大戦の終結を目撃するという数奇な体験を持つ。
父である、小野寺信は帝国陸軍のストックホルム駐在武官として連合国側の情報収集にあたっていた。


・小野寺信の情報ルートを通じて日本にもたらされた機密情報のひとつが、
「ヤルタ密約」だった。
しかし、その情報は国策にいかされなかった。
情報の持つ業の深さ、その非情さ。
小野寺家の父母とその息子は、インテリジェンスの世界の深淵を垣間見た稀な人々であった。


・そして運命のめぐり合せだろうか。
日本は、戦後45年目にして遭遇した国際的危機にあって、再び小野寺を必要としたのである。
息子、龍二の血のなかには、紛れもなく、父の信念が脈打っていた。
真に価値のある情報を得ようと思えば、
情報源との間に深い人間的な絆を築き上げるほか道はない、と。


・「敵についての知識は、神からも悪魔からも得ることはできない。
それは、洞察によってのみ手に入れることが可能である」

イギリス秘密諜報部に永く言い伝えられている格言だ。
情報活動は極めて人間的な営為である。
深慮とひらめき。
このふたつがあいまって鋭い洞察力を生む。


・「イスラエル、ベルリン、ワシントン、ロンドン。
日本ほど経済大国になれば、世界各地から枢要なインテリジェンスが、
各省や民間のルートを通じて怒涛のように流れ込んでくる。
そこからわずかに光り輝くダイヤモンドを選り分ける眼力を持ち、
時に互いに交換し、価値を認め合うことこそ大切なのだ。
だが東京は、宝石の原石を金にあかして買い漁り、
玉石混合のまま金庫にしまいこむ商人にも似ている」

東京で長年、日本の情報に対する鈍感さを目撃し続けている英国外交官の皮肉な弁である。


・「人の国に情報を頼っていて、どうして独自の外交など望めようか。
たとえ、情報を他国に頼ったとしても、自らの力で検証できず、
どうして自国の政策を満足に遂行できるだろうか」
このイギリス外交官は、日本にこんな疑問を投げかけている。


・外務事務次官松永信雄は、気鋭のペルシャ語の専門官をテヘランに次々に送り込み、
長期的な視点からイラン社会にどっしりと根に下ろした人脈の開拓にあたらせた。
このとき播いたペルシャの香り米の種子は、やがてほのかな芳香を放って、
日本の対イラン外交に豊穣な秋をもたらすことになる。


・テヘランにおける日本の情報活動の成果は、ペルシャ語の専門官たちによる、
地を這うような努力の末に得られたものだった。
イラン側の安易な情報提供に頼った事実はない。
ある者はこつこつと積み上げられた人脈から、ある者は自らの足で、
またある者は全くの偶然から重要情報をキャッチした。


・同盟国日本への「内報」。
「内報」は、しばしば国家間の関係を映し出す鏡となる。
国策上の重大な決定を、公表前にどのようなタイミングを選んで関係諸国に通報するか。
そこには「内報の国際政治学」とでもいうべき法則がある。
重要な同盟国には、外交ルートを通じて、決定がいち早く極秘裏に伝えられる。
だが、たとえ同盟国であっても、微妙に利害が絡む国に対しては、
その骨子だけが発表直前に伝達されることが多い。


・外交に果たす公電の存在には、部外者の想像を超える重みがある。
外交論の優れた古典として知られる『外交』 のなかで、
ハロルド・ニコルソンは、外交交渉を担う者に求められる要件のひとつに、
正確さをあげている。


・素人外交官の口頭による約束に比べて、
職業外交官は若き随員時代から「正確であれ」という原則に厳しく訓練されているため、
まず文書によって合意に正確を期す。


・あるベテラン交渉官は後輩たちに次のように語っている。
「国際的な落としどころと国内的な落としどころの一致点を見極めるのは、
至難なことだ。
外国との交渉だけをやってきた者、
またドメスティックな取りまとめだけをやってきた者には、
そうした仕事は到底為し得ない。
この困難な任務をどうのようにして乗り越えていくのか。
諸君は日々の業務のなかから学び取ってほしい」


・国内の複雑な利害調整に血を吐くような思いをしたことのない者には、
外国との交渉で本当に国益に沿った決着を図ることができない。
その一方で、外国との交渉の任にあたって、
退路を断たれるような辛い思いを味わったことのない者には、
人々の納得を得る妥協策を国内で見出すこともまた難しい。


・二元外交は、漆黒の夜空に打ち上げられる花火に似ている。
それは、一瞬の間、大輪を広げて華麗に輝くが、同時に地上の現実を照らし出してしまう。
そして結局は、外部に自国陣営の脆さと醜さを露呈する。


・「戦争は同盟の墓場だ」
英国外交官にして詩人でもある友人が語った言葉を私は今も忘れない。


・「試練を経た友情のみが真の友情だ」
と語ったのは周恩来だったが、
日米同盟はまったく試練のなかにあった。


・先の大戦を英米同盟の執行役として戦い、引退したある老外交官は、
午餐の席で若き外交官にこう諭した。
「同盟関係とは苛烈なものだ。
わが英国が米国と同盟の契りを結んでしまった以上、
いかなることがあっても、君たちは米国を支持せざるを得ないのだ。
そこに外交上の選択などありはしない。
常にイエスと言い続けること。
それが君たちの職務であり、義務なのだ。
外に向かっては、あたかも同盟国米国の前に立ちはだかって諫言し、
時に彼らの要求を拒んでいるように振る舞って見せなければならぬ。
そうすることによってのみ、英国民の間にわだかまる屈辱感をいささか払拭しうるのだ。
そして、同盟は辛くもその命を永らえることができる。
同盟関係とは、キュー・ガーデンの温室に咲く古代の蓮のように脆いものなのだ」


・戦争は同盟に潜む矛盾を一挙に噴出させる。
湾岸戦争もまた、日米同盟の最も柔らかい脇腹を直撃したのだった。


※コメント
外交や国際政治というものは、あらためて厳しいところだ。
相当の胆力をもった人でないと、外交官はつとまらないのだろうと感じた。