◆高遠弘美『物語・パリの歴史』を読み解く 


 ★要旨 


 ・ルイ16世の処刑を挟んだ1792年から1797年にかけて、
英国、スペイン、オーストリア、プロイセン、
ネーデルラント、ナポリ王国、
サルディニア王国等といった国々はフランス革命に危機感を募らせ、
第一次対仏大同盟を結び、フランスに侵攻しました。 


 ・フランスは徴兵制度を敷き、抗戦。
1793年以降、ナポレオンが各地で勝利を収め、
大同盟の国々を押し返したばかりか、
領土を拡大するに至ります。 


 ・そうした対外戦争を抱えただけでなく、
国内でも反革命派の内乱が頻発し、
経済的混乱も加わって、
革命の基盤が弱体化しかねない中で革命政府が採った対応策が、
「恐怖政治」でした。 


 ・一般には、1792年9月に起こった虐殺事件から、
1794年7月のテルミドール9日のクーデターでロベスピエールらが失脚するまでの期間を言います。 


 ・最初は民衆蜂起の形で特権階級や反革命派を殺害するテロ行為だったのですが、
1793年10月に革命政府が樹立されると、
今度は政府自ら、
反革命派や旧体制の聖職者やジロンド派に属する人々を処刑します。 


 ・さらに、途中から袂を分かち、
恐怖政治に反対したダントンやカミーユ・デムーランも粛清されました。 


 ・最初のうちこそ革命裁判所の判決を待って処刑されていたのですが、
略式判決が認められた1794年6月11日以降、
7月27日(テルミドール9日)のクーデターまでの
ひと月半あまりの間に、
パリでは千三百数十名が断頭台で処刑されましたし、
地方で虐殺された王党派や反革命派の数は数万にも及びました。


・ロベスピエールらの恐怖政治に反対する勢力が勢いを増し、
器に注がれる液体がそのままではやがてあふれ出すように、
テルミドール9日、国民公会でロベスピエール派の糾弾が決議され、
一旦は市庁舎に逃げ込んでいたロベスピエールらは
翌夕方には断頭台に送られました。 


 ・さらに翌日、ロベスピエール派の活動家が続けて処刑されましたが、
その数は70余名に達しました。 


 ・ジャコバン派が終焉を迎え、
フランス革命は事実上の終結となりました。 


 ★コメント 

フランス革命とは何だったか、
今一度、検証したい。