◆大下英治『二人の首領。稲川聖城と石井隆匡』を読む



副題

→「稲川会、極高の絆」



★要旨



・私が、稲川聖城(せいじょう)稲川会・会長と

初めて会ったのは、

東映の山下耕作監督の映画『修羅の群れ』の

原作を書くためであった。



・東映の岡田茂社長が、

稲川会長の半生を映画にしよう、ということで

その原作を私が書くことになった。



・岡田社長は、こう言った。


「稲川会長は、山口組の田岡一雄・三代目とならぶ日本の首領(ドン)だ。

関東のヤクザ、いや日本のもう一つの戦後史でもある。

とことん話を聞き出せば、スケールの大きいドラマになる」



・稲川会長が、住吉連合のように東京でもなく、

山口組のように神戸でもない、

神奈川県湯河原からスタートして、

熱海を本拠としながら、

稲川会をいかにして巨大な組織に成長させたのか、

にも興味があった。



・稲川にとっての転機は、

右翼の大立て者、児玉誉士夫と繋がったことであろう。



・稲川は、

「革命前夜」とさえ呼ばれた「60年安保」の騒ぎのとき、

左翼デモ隊の鎮圧に協力する。



・私は、政界、財界をはじめとした

さまざまな世界の作品を描くが、

政治家に対しながら、ふと思う。


<この人は、ヤクザの世界にはいっていたなら、

トップになれていたであろうか。

頭はいいが、度胸がなさすぎる、、、>



・私は、何人ものヤクザの親分たちに会ったが、

稲川聖城は、政治家になっていても、

まちがいなく首領と呼ばれる存在になっていたと思う。



・稲川会二代目会長の石井隆匡(たかまさ)は、

わたしが『修羅の群れ』を連載するときには、

刑に服していて娑婆にはいなかった。



・『修羅の群れ』の連載が終わって、

あるパーティで出所した石井理事長に会った。

まわりを黒服の若い衆が取り囲んでいたが、

石井は、まるで彼らとは

異なった雰囲気を醸し出していた。



・石井は、まるで大銀行の頭取か、

ビッグビジネスの幹部を思わせた。

白髪で、表情も穏やかである。



・稲川会長は、

長男で19歳であった稲川裕紘(ゆうこう)を

石井のもとで修行させることにした。



・石井は、昭和38年、

三代目の稲葉多吉から横須賀一家を

引き継ぐことになった。

39歳の若さであった。



・横須賀一家は、

横須賀、浦賀方面を縄張りとして

明治時代前に結成された名門である。

縄張りは、かなり広く、

伊豆七島までを縄張りとしていた。



・石井は、佐川急便の渡辺社長と縁を深め、

政界の「首領」金丸信ともつながっていく。



・金丸は、

盟友の竹下登を総理大臣にするため、

「ほめ殺し」の皇民党の動きを封じて欲しい、

頼み込む。



・誰が頼んでも、

断り続けた皇民党の稲本総裁も、

ぎりぎりのところで石井の頼みとあってはと、

石井の顔を立てた。



・私は、極高の絆で結ばれた、

稲川、石井二人の歩んだ人生を、

ヤクザのドラマとして描いた覚えはない。

あくまで戦後史であり、

戦後の政治と経済の裏面史として描いたのである。



・稲川聖城と石井隆匡は、

まさに、昭和、平成にまたがった、

日本の二人の「首領(ドン)」であった。



★コメント

裏口から、政治経済の歴史を見るのは、おもしろい。

ドラマチックである。